闇黒日記?

にゃもち大いに語る

いやなこと

「現代仮名遣」とか「日本国憲法」の議論で嫌なのは、最初に「今通用してゐるから正しい」と結論を極附けて、それを尤もらしく見せかける爲に論證と云ふ手續きを蹈んで見せる、と云ふ事が一般的に行はれてゐるからだ。世の中、疑ふのは良い事だ、と言はれてゐるから俺は當然のやうに「常識」を疑つたのだけれども、さうしたら何故か俺が「最初に結論を極附けてゐる」事にされてしまつた。何なのだらう。

憲法の話でも、「日本国憲法」は「有效」と云ふ結論があつて、それを尤もらしく見せかける爲の説明が横行してゐるから俺は怒つて無效論を言つてゐるのだけれども、やつぱり「野嵜は最初に結論を極附けてゐる」と云ふ事を本氣になつて言つてゐる人がゐる。
專門家氏の言ふ事が信用できるなら俺はもちろん信用する。けれども、それが全然信用できないのだから仕方がない。しかしやつぱり「信用できるんだよ。だから專門家なんぢやないか」と結論を最初に極附ける人々がゐて、俺の事を「專門家を端から信用しない手合」のやうに言つて罵つて呉れてゐる。
信用できる筈の專門家が、憲法を論じて、平然と二重基準で語つたり、都合が惡くなると話をずらして胡麻かしたりする。何うして信用できると言ふのだらう。「信用できるから專門家」式の「論理」を振りかざす人は、「信用できないから野嵜は人間の屑」といつた結論を常に最初に出してしまふ。

日本国憲法」は正しい、なぜならちやんと議會で決つたからだ。然るに大日本帝國憲法は正しくない、統治者に押附けられたものだからだ。――こんな事を專門家氏が言ふのである。
「ちやんと議會で決つた」と云ふ「日本国憲法」だが、その議會は大日本帝國憲法があつて成立してゐた議會なのだ。「日本国憲法」は、何もない場所に突然現れたものではない。大日本帝國憲法が既にあるところに出現したものなのである。これが法律の專門家には認識できないと云ふのだから、專門家も大した事がないと俺は思ふのだが「信用できるから專門家」理論の人にはやつぱり解らないらしい。
大日本帝國憲法が既に存在する以上、その制約の下でのみ、改正は可能だ。これは全ての人間が受容れざるを得ない事實だと思ふが、專門家氏には理解できないのだと云ふ。專門家は、「これを受容れたらまづい」と云ふ事を知つてゐる專門家であつて、だから「受容れてはならない事實」を意地になつて受容れまいとする。喜六郎と同じで「聞く耳持たない」と云ふ方法で都合の惡い事實は「なかつたことにする」のが專門家である――もつとも、さう云ふ事をするのは、その專門家が實はいんちきな專門家だからである。今の日本の法學界は、斯う云ふいんちき專門家の養成を一生懸命やつてゐるところだから、ほとんどの專門家氏がいんちきであるに過ぎない。モラルも糞もないから裁判官がストーカーになつたりする。閑話休題
大日本帝國憲法は、欽定憲法であつて、天皇が統治者の權限で發布したものだ。統治者だからさうする權利があるのであつて、だから大日本帝國憲法は有效だつた。が、大日本帝國憲法憲法として發布されたのであつて、統治者と被統治者の約束として機能する。が、約束と言つても憲法は、統治者が被統治者に一方的に義務を課す命令ではなく、逆に被統治者の權利を守る爲に統治者の權能を制限する機能も持つ――と言ふより、さう考へなければ「法の支配」は成立たない。
英國マグナ・カルタにしても、後づけ解釋で、統治者の權能を制限する約束として憲法と看做されてゐる。憲法は、出自が問題ではなく、一度なされた約束だからと言つて「守る」事が大事である。日本人と違つて歐米人は契約を神聖視するから契約である憲法も大事に守られる云々。大日本帝國でも、天皇は法を遵守する事を義務だと信じてゐた。
ところが、さう云ふ憲法を蔑ろにして、統治する側の實力を頼みに、國民を支配しようとした勢力があつて、それで軍國主義體制が出現した。軍國主義は力による支配であり、「法の支配」を否定して成立してゐる。
その軍國主義が、外國の力で打倒された時、外國の壓力で「日本国憲法」が定められた。「おしつけ憲法」と言はれる所以だ。が、占領が終つた時に日本政府は「おしつけ憲法」を排除せず、引續き憲法として戴いて行く事にした。だから單なる「おしつけ憲法」ではない。
が、日本と云ふ國家が戰前から連續して存在してゐるならば、矢張り憲法も連續してゐなければならない。戰後の憲法は戰前の憲法が改正されたものでなければならない。「日本国憲法」は大日本帝國憲法を「改正したものだ」と言つてゐるが、もちろん、それは無理がある。だからこそ「八月革命説」が「説明の爲」に言はれるのだが、「事實として革命はなかつた」のだから明かに無理。「革命」と言つたら政府に連續性がない事になつてしまふ。「大日本帝國憲法の規定に從つて改正した」と云ふ經緯もある。
多くの人が指摘してゐる通り、
http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm
占領が終つた時點で「日本国憲法」なる「占領基本法」は破毀すべきであつた訣だが、それがなされないまゝ半世紀以上が經つて、「今の憲法でやつてきた」期間が長くなり過ぎた。だから「元に戻しづらい」と云ふ事で尤もらしく「今の憲法を正當化するのは正しい」と、保守派までもが言ふ始末なのだが、ここは保守ではなく反動にでも何にでもなるべきで、飽くまで筋を通すべきだ。「筋を通す」事こそが重要だからで、それを輕視してゐるから、例へば法律の專門家がモラルのかけらもない非道い眞似を平然としてゐるやうな世の中になつてしまつてゐる訣だ。

專門家氏が言つたのだが、統治者が被統治者に權力で以つて押附けるのが憲法で、權力の權威があるからその憲法は有效である。その權威が無くなればその憲法は無效である。だから大日本帝國憲法は無效となり「日本国憲法」は有效である。なるほど。「日本国憲法」が「今、有效である」事を説明するのには「うまくいつてゐる」やうに見える。が、この説明を信じて良いか。
斯うした考へ方が極めて危險である事はWikipediaの説明にも書かれてゐる事で、「法の支配」を否定するから憲法が被統治者の權利を守り得ない事になつてしまふ。今の法學の專門家諸氏は、「法の支配」を重視するのか、輕視するのか。少くとも、俺を問答無用で默らせた專門家氏は、輕視する立場だつた。力こそが正義――だから俺のやうな素人を「專門家の權威」で默らせようとしたのだと、動機まで説明できてしまふ。が、「法の支配」を否定し、力のみを肯定するならば、それは戰前の軍國主義者と同じである。民主憲法である筈の「日本国憲法」を「擁護する」立場の筈の人が軍國主義的であるのは、をかしな話だ。が、どうも俺の經驗上、今の民主主義國日本には、この手の權威主義者が多いやうに思はれる。
しかし、さうした權威・權力で憲法を何うにでもできる、と云ふ專門家氏の發想は、「日本国憲法」を正當化する事には繋がらない。統治者の都合で、憲法を改廢する事が自由にできるなら、當然の事ながら「日本国憲法」も統治者が自由に改廢できる筈だからだ。「ならば現行憲法を無效とする事もできる」と俺は指摘したが、專門家とは「聞く耳を持たない」のが商賣の秘訣らしい、ひたすら俺を「無知だから」と極附けて默らせて呉れた。喜六郎も「聞く耳を持たない」人種だから、俺が「涙目」になつたのを喜んで、自分は全く關はつてゐない事だつたのに「アーカイブ」に轉載して己が功績のやうに誇つてゐる。
が、だからこそ、俺の指摘に對して「專門家から反論がなかつた」事は確實な事實であるのだし、當然の事ながら專門家氏の論理の破綻は決定的な事實となつた訣である。人が論戰で負けても、理窟は負けない。喜六郎のやうに、論者の人格だけを問題にする人間には永遠に理解出來ない事だが、事實だから仕方がない。

好い加減長くなつて面倒になつたので、そろそろおしまひに。
日本国憲法」が理論的に成立たなくなると、專門家氏は「しかし、良い憲法なのだから守らなければならないだらう?」と、常に話を逸らす。この事は既に指摘ずみ。
http://noz.hp.infoseek.co.jp/kenpo/Kenpohenoshotai.html
論理的な破綻も、二重基準も、今の法學の專門家は全然氣にしない。ただ「專門家だから信用しろ、信用しない奴は馬鹿」式の「論理」で、ひたすら權威主義的に、力で以て、「日本国憲法」を維持しようとしてゐる。が、それでは戰前の軍國主義と同じだらうと、俺は自由主義の立場から指摘してゐるのだが、「聞く耳持たない」軍國主義者の專門家諸氏は、しかし、だからこそ、激昂して、喜六郎のやうな粘着とまでも連係して、俺を潰しにかかる。
國字問題でも(改革された現状の)維持派が實に陰濕なやり方で改革反對派を潰しにかかつてゐると聞く。所謂文字コード問題でも、調べてゐた加藤弘一氏が嫌がらせに遭つたと本で書いてゐる。
http://www.horagai.com/www/salon/works/denno.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/Dennoshakai.html
日本と云ふ國は本當に何うしやうもないと俺は思ふのだが、嫌がらせする側にとつては天國みたいな國で、だから彼らは今の日本が大好きであるのであり、さう云ふ惡人天國を何とかしよう・何とかすべきだと主張する俺なんかを憎惡して默らせようとする訣である。