闇黒日記?

にゃもち大いに語る

喜六郎ら粘着の憲法論を憐れむ


粘着の喜六郎氏によれば、「法の支配」「法治主義」とは、「法の條文を楯にとつて、自分の權力を確保し、擴大しようとする事」であるさうだ。

野嵜健秀の憲法論を嗤う
2008/5/23 12:26
政治
死ぬ死ぬ詐欺も一段落したかなと思いきや、我らが「無免許法学者」野嵜健秀氏が相も変わらずブログにて珍妙なる憲法論を開陳している。

日本国憲法」は正しい、なぜならちやんと議會で決つたからだ。然るに大日本帝國憲法は正しくない、統治者に押附けられたものだからだ。――こんな事を專門家氏が言ふのである。
やっぱり理解していない(笑)。
アーカイブスを読んで頂ければ分かると思うが、「專門家」氏は「日本国憲法は正しい」など言ってるのではなく、単に「明治憲法も現行憲法も法的な手続きで制定されたのではない」と言っているに過ぎないのである。
何でこんな簡単なことが分からないのだろうか?

ところが、さう云ふ憲法を蔑ろにして、統治する側の實力を頼みに、國民を支配しようとした勢力があつて、それで軍國主義體制が出現した。軍國主義は力による支配であり、「法の支配」を否定して成立してゐる。
軍国主義体制が出現したのは、野嵜氏が言うように憲法を蔑ろにしたからではなく、軍部が明治憲法で定められている統帥権を盾に暴走したからである事は日本の近現代史の常識である。
つまり軍国主義は「法の支配」を否定して成立したのではなく、「法の支配」の結果として成立したのである。
野嵜氏は近現代史の基本的な知識すら持ち合わせていないようである。

俺は基本的な知識を持合せてゐないが、喜六郎氏は大変な知識を御持ちのやうである。その喜六郎氏が樣々な事實に關する知識を披露して呉れてゐる。

投稿者:kirokuro
2008/5/23 19:15
日本の軍国化の嚆矢となったのは、昭和5年時の浜口内閣が目指していたロンドン海軍軍縮条約締結の際に巻き起こった「統帥権干犯問題」です。
軍縮条約締結の際に、当時野党だった政友会や軍部の条約反対派、右翼などが「浜口内閣が推し進めてる軍縮条約締結は明治憲法で定められてる統帥権を犯す行為である」と浜口内閣を攻撃したわけ。
つまり「軍縮条約は違憲だ!」といって軍国主義側は浜口内閣を攻撃したわけ。
投稿者:kirokuro
2008/5/23 22:40
野嵜さんは「どうでもいい」とか言うんだろうけど、統帥権の問題は「どうでもいい」どころか重要な問題なんだよね。
現行憲法を語る上で9条問題は絶対に外せないのと同様、明治憲法を語る上で統帥権の問題を外すことは絶対出来ない。
で、その「重要な問題」とは、どのやうな觀點から言ふ「重要な問題」なんだか。「歴史學の問題だ」と言ふのなら、なるほど、喜六郎氏たち專門家の間で勝手に論じてゐればよろしい。俺の問題にしてゐる事とは何の關係もない。俺に關るな。別に俺の名前を出したければ出して宣傳して呉れても言いけれども、あんたらの興味のある問題を論じたいだけなら俺とは無關係だ。

ちなみに俺は、現行憲法無效論で、今の「日本国憲法」の無效を確認したら大日本帝國憲法を復活させる事を言つてゐるけれども、同時に、復活させた大日本帝國憲法は即座に今の民主主義の状況に即して適切に改正すべき事も主張してゐる――と言ふより、福田恆存がさう「當用憲法論」で言つてゐるから俺はそれに從ふ。

福田氏は「當用憲法論」で、民主主義の精神が定着した今なら、日本人は大日本帝國憲法でも適切に改正する事が出來るだらうし、改正限界を超えない形で改正しても巧く運用して行けるだらうと述べてゐる。
福田氏の議論は、飽くまで民主主義の精神の存在を前提にしたものであり、俺はそれを前提に話をしてゐる。だから、さう云ふ俺の現行憲法無效論で、喜六郎なんかが「統帥権」が何うの斯うのと言つても完全に的外れだ。
喜六郎等は、俺の議論の根本的な部分を理解出來ないで、ただ俺を愚かに見せかけようとして揚げ足をとつてゐるに過ぎない。
「自分の論じ方だけが正しい」と考へ、自己中心的な態度をとつてゐる彼等粘着は、「飽くまで議論の主導權は野嵜にある」と云ふ事實を忘れてゐる。俺・野嵜が何う云ふ意圖で何う云ふ觀點から何う云ふ流れで物を言つてゐるか――それを正しく認識して、俺を批判するなら批判として正當だ。だが、それを理解しようともしないで、ひたすら「歴史はかうである」とだけ言つて俺を罵つてゐる。ならば、彼等のしてゐるのは批判でも何でもない、自分逹の立場のアピールだ。
彼ら粘着は、俺を見てゐるやうで、實は見てゐない。「人を批判する」と云ふ事を彼らは理解してゐない。人の言つてゐる事を、前提条件も何も含めてありのまゝに認めて正しく理解し、その上でをかしい部分を指摘するなら、それは批判だ。が、彼らは知識を互ひに見せあつて、その多寡で勝ち負けを決める論戰をこそ「すべきこと」だと信じ、そして彼らはさう云ふ戰ひで勝たねばならぬと心から信じてゐる。しかし、さう云ふ考へで個人攻撃をしかけて、あんたら何をしたいの? 俺を叩いて何うしたいの。

――そもそも福田氏の「當用憲法論」を喜六郎は讀んでゐるのか。
俺を罵倒して好い氣になつてゐる喜六郎の取卷きの「一読者」氏は、「當用憲法論」を俎上に載せる氣はあるのか。
俺はいくら叩かれても構はない。俺は「贋者」だから、福田氏や松原先生のやうな頭の出來ではなく、個人的には叩かれるやうな人間だ。が、俺をきつかけに「當用憲法論」は讀まれてほしいし、俺の言つてゐる事とは關係ナシに「當用憲法論」は正しい論理と認識で書かれてゐるから、虚心に讀めば誰でも納得せざるを得ないものと信ずる。
そして、福田氏の讀者たらんとする人は、「福田信者」が何うの斯うのと言ふやうな人であつてはならないと俺は思ふし、本當に福田氏を讀める人ならば、俺のやうな一讀者が何を言はうが福田氏の言ふ事を正しく讀んでありのまゝに福田氏の思想を理解し、福田氏の言ふ事に感心して從ふ事が出來るだらう。俺の事が讀むきつかけになればそれで良いし、きつかけに出來ない人なら福田氏とは接點そのものが無いのだらう。