闇黒日記?

にゃもち大いに語る

典型的な粘着アンチ・喜六郎


「わからない事」にも、質という物がある。
「わかる」価値もない「わからない事」というものも、この世には厳然と存在するのである。
野嵜氏の「言論」とやらは、まさにそれに該当する。
つうか、野嵜氏の「言論」というのは、誰でも分かることをわざわざ分かり難く書いているにすぎない。

もつたいぶつた文體を使つてゐるが、要は、「野嵜は馬鹿」と喜六郎は言つてゐるだけだ。

そして、「俺が粘着するのは、粘着される奴が馬鹿だからだ」と言つてゐるだけだ。

しかしね、そんな理由で粘着行爲は正當化されないんだよ。


俺は「何を理由にしても粘着は許されない」と言つた。ところが、粘着アンチと云ふ人種には、それが理解出來ない。
本當に「わからない人」と云ふのは、自分が「わかりたくない事」は徹底して「わからない」のだなあと思ふ。

自分の正義を心から信ずる爲に、どれ程惡辣なやり方でも許されると心から信じてしまふ。彼らは「わからない事を言ふ人間」の活動を執拗に妨碍して粘着と化す傾向がある。

まつたくもつて喜六郎の幼稚な「正義感」には困つたものだ。