闇黒日記?

にゃもち大いに語る

反論できないから反論しないで俺の惡口を書き連ねるだけの哀れな「哲学徒」

喜六郎の掲示板より。「哲学徒」が反論できないものだから、俺の惡口を言ひ放題に言ひ捲つて憂さを晴らさうとしてゐる。

驚いた、あわてた、笑った 投稿者:哲学徒 投稿日:2008年10月 1日(水)22時21分41秒   返信・引用
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/25231210.html
>「喜」の取卷き連が全員、「喜」の論理のをかしさを、認識出來ないのだ。
> 例の「哲學」の人も、わからない。わからないからこそ、「喜」を批判しないのだが
読み飛ばしてたんで、今の今まで全然気づかなかったよ(笑)。
あわてて野嵜健秀クンの間違いを指摘しているわけだが、野嵜健秀クンは「気づかない」と「わからない」の区別が付かないらしい。
また「気づいているけどスルーする」と「わからない」の区別も付かないらしいうえに「批判しない」=「わからない」なんて論理が
#それこそ「論理」だ
正しいと思っているらしい。
そんな論理がまかり通るなんてのは、野嵜健秀クンの脳内だけじゃないだろうか?

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>(野嵜健秀クンは)本当は誰よりも必死なくせに、「冗談」とか「暇つぶし」とか宣って余裕ぶってみせることによって自分がいかに「クール」であるかを強調する。
>知的スノッブがよく使う手だ。
#括弧内は漏れが補った。
を分析して
>「知的スノッブは自分がいかにクールであるかを強調する」「野嵜は自分がクールであると強調する」「野嵜は知的スノッブだ」
を取り出すのは無理だろう。
漏れならこう分析する。

「野嵜健秀クンは自分がいかにクールであるかを強調する」「知的スノッブは自分がいかにクールであるかを強調することがある」
ここから
「野嵜健秀クンは知的スノッブの使うことがある手段を使う」
このあたりかな?
印象的には
「野嵜健秀クンは知的スノッブであるという『状況証拠』がある」
になるけど、それは漏れの印象である。
#野嵜健秀クンの大嫌いな「印象」だよ(笑)

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それから、http://noz.hp.infoseek.co.jp/Ronrigaku/ はマジで吹いた。
こういうときに挙げるのは、普通は評価の定まった書物かWikipediaだと思うがなあ。
野嵜健秀クンはWikipediaを認めていないらしいからそっちはイイとして、
自分のノートを挙げるとはね。

漏れはそんな度胸はないなあ。とりあえずググって見つけた
http://www.ne.jp/asahi/village/good/logic.htm を挙げるか、
コレだと漏れの好みではあるが論理学を知らない人には敷居が高すぎると思うので次に見つけた
http://www3.ocn.ne.jp/~eee/logictop.html
を挙げるよ。

「自分のノートを元に論理学の基礎を論ずる」ということは「自分のノートの内容は誰がどう見ても無謬のものである」という自信の表れか、無意識にそう思い込んでいるかどちらかだろう。
どっちにしても野嵜健秀クンが知的スノッブである状況証拠にはなるね(笑)。
#漏れは「スノッブ」という言葉の意味を余りよく知らない。せいぜい
#「知りもしないことを訳知り顔に語る鼻持ちならないヤツ」あたりだね。
#漏れが好きな定義は「スノビズムとは背伸びズム」ってヤツで、
#「自分を大きく見せたいために背伸びをしている小物」というところかな?

何一つ反論になつてゐないのだが、當人は「俺、野嵜健秀クンを論破した!」と心から信じてゐるらしい。それにしても、何で俺の事をフルネームで呼ぶんだらう。しかもカタカナで「クン」と來た。「野嵜健秀クンは」「野嵜健秀クンは」「野嵜健秀クンは」。
頭が惡いねえ。

(無題) 投稿者:哲学徒 投稿日:2008年10月 1日(水)22時35分33秒   返信・引用
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/25388538.html
>現實に「呼び寄せられた先」が「喜六郎の掲示板」なのを見れば、「哲学徒」が喜六郎の仲間である事は明かなんだよな。
もとは2ちゃんねる出身なんだけどね。当該のスレがなくなって、他に場所知らないからココに書いてるんだけど。

>(なんか他人にさう言はれて喜んでさう自分でも言つてゐるものらしい)
漏れは「『哲学』何とかと自稱してゐた奴」と言われて「自分で勝手に名乗っている」≒「実は誰も認めてない」と言う印象を受けたので
>2ちゃんねるで誰かがつけてくれたあだ名
と書いたんだけど、そういう印象を与えたことは棚に上げて、
#普通なら謝ると思うけどね
>「哲学徒」(なんか他人にさう言はれて喜んでさう自分でも言つてゐるものらしい)
と、さらに悪印象を与える表現をする野嵜健秀クン。
なかなかいい性格じゃないか(笑)。

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ま、いいや。野嵜健秀クンは好きなように書いてくれ。漏れも自分に言及されようがされまいが、好きなときに好きなようにやるよ。

「他に場所知らない」とか言つてゐるが、結局のところ依つて行つた先が御仲間の處と云ふ事だ。スルーと云ふ事を知つてゐるなら斯う云ふ場合、スルーすればいいだけだらう。

まあ、人の印象が惡くなるやうに惡くなるやうにと「哲学徒」が書いてゐるから俺も眞似をしただけなのだが、自分がやられると嫌なのらしい。人の事を罵る前に、「哲学徒」は自分自身の事を省みるべきではないか。なぜ俺の事を惡く言つて、自分自身の事を反省しないのだらう。「反省する能力が無いから」だとしか考へられない。
と言ふか、「なかなかいい性格じゃないか(笑)。」と言つてゐる「哲学徒」は、自分自身こそが「いい性格」(即、嫌な性格)だと自覺してゐないらしい。
「喜」の周りには、自分自身の性格の惡さを棚に上げて、俺の事を「性格が惡いから許せない」と思つてゐる人間が集まるらしい。困つたものだ。


「哲学徒」の頭の惡さは、「哲学徒」が言つた「論理」が少しも論理的でなく、反論にもなつてゐない事を、「哲学徒」が認識する事すらも出來てゐない事を見れば判る。もちろん、「わからない」のだから「哲学徒」は何度指摘されても「わからない」。處置なしだが、だからこそ「哲学徒」は悔しくて、「野嵜健秀クンは」と惡口を言つて憂晴しをしようとする訣だ。

漏れはアンチ野嵜健秀クン、正確にはアンチ「野崎健秀クンの似非哲学」なんだけど、野崎クンのアタマの中では「アンチ野嵜=喜六郎の仲間」らしい。
野嵜信者=A、喜六郎の仲間=Bとすると
漏れは¬AだがBではない。
#¬野嵜信者=アンチ野嵜健秀 とするのは少々無理があるが、新しくCという集合を作ると話がめんどくさくなるのでやめた。
「漏れは¬AだがBではない。」と力強く宣言したところで、それは證明にならないんだよ。
「アンチ野嵜は一人の例外もなく喜六郎の仲間である。哲学徒はアンチ野嵜である。必然的に哲学徒は喜六郎の仲間である」さう俺が言つてゐたとしたら、それは非論理的だ。だが、そんな事を俺は一度も言つてゐないのだ。「哲学徒」は、俺が「論理的に間違つてゐる」と云ふ事にしたいが故に、俺の「論理」をでつち上げて、そのでつちあげの「論理」においては大前提となる「アンチ野嵜=喜六郎の仲間」と云ふ事を「野嵜が信じてゐる」と云ふ「事にしようとしてゐる」。繰返すが、俺はそんな「論理」は用ゐてゐない。
「論理的」である事を裝はうとしたが故に、「哲学徒」は論理の羂に自ら嵌まつたのだ。