闇黒日記?

にゃもち大いに語る

そもそも喜六郎には他人の文章の意圖を理解する能力が無い


「喜」がこんな事を書いてゐる。もちろん、松原氏の意圖を誤讀した――と言ふより「喜」にはこんな風にしか、松原氏の意圖は理解出來ないのだ。

豫め言つておくが、松原氏がしたのは西尾幹二批判であり、「西尾幹二には天皇を擁護する資格がない」と言ふ事が松原氏の意圖だ。が、それは結局のところ、「天皇を愛しない日本人が、政治的に必要だからと言つて天皇制を擁護する事は許されるか」と云ふ問ひかけである。言はゞ「天皇の論じ方に對する疑問」だ。

ところが「喜」は「天皇制」の問題こそがこの論文の主眼である、と勘違ひした。「天皇制はいかにして維持すべきか」のやうな、西尾らがしてゐるシステムの議論を「喜」もまたしようとして、その點で西尾らが引出すに決つてゐる結論を同じやうに引出して「松原氏は駄目」と言つたに過ぎない。

2008/9/2
「語るに落ちた松原正」  知識人
保守系オピニオン誌の最大手、『正論』2008年10月号に久々に松原正氏の論文が掲載された。
内容は、やはり保守系オピニオン誌『WILL』に連載された西尾幹二氏の皇太子夫妻批判への批判文である。

福田恆存思想の正統後継者」と言われる松原氏のことだから、皇室の問題を考えるにあたって有用な新知見があるのだろうと期待していたのだが、見事に期待はずれであった。

松原氏がこの論文の中で述べていることは、実に簡単。
ろくに根拠も提示せず「天皇"制"は無くならない!」と連呼しているだけである。あとは毎度おなじみの「政治主義批判」と文章添削。
もはや「伝統芸能」の域に達している感がある。

松原氏にとって皇室の安泰は自明のことなんだろうが、多くの読者にとっても自明であるとは限らないわけなんだから、たとえ皇太子夫妻が「左翼思想」に汚染されていようが天皇"制"が揺るがないと信ずる根拠を提示しなければならないはずなのに、それがないんじゃ読者には理解されないだろう。

『では、皇太子に西尾は何を望んでるのだらうか。雅子妃との離婚であらうか。』のくだりは、もはや単なる言いがかりである。

前々から感じてたことなんだけど、松原氏の文章は、松原氏に理解がある人にのみに向けて書かれているような所がある。
「月曜評論」の連載みたいに、ファンしか読まないようなものならともかく、『正論』のようなメジャー誌では通用しないだろう。

實際、松原氏の文章を、松原氏に理解がある俺は理解したのであるが、「喜」が「理解出來ない」のは、「喜」自身の責任だらう。松原氏や「松原信者」に責任轉嫁して嘲笑を加へるのは論者としての「喜」自身の責任囘避にほかならない。
また「もはや單なる言いがかりである」といふ言葉は、「喜」は自分の行動を省みて、さうさう安易に發する事が出來ない筈だが、「喜」はただ「もつともらしい言ひ方」だと判斷し、自分の文章をもつともらしく見せかける爲に、無反省に用ゐてゐる。

しかし、喜六郎が松原氏の論文を「ろくに根拠も提示せず「天皇"制"は無くならない!」と連呼しているだけである。」と要約してゐるのは、本當に情けないとしか言ひやうのないくらゐ情けない誤讀だが、「さう云ふ風に言つてゐる部分もある」だけに「事實」の「部分もある」訣で、例のomegatribesの惡質な引用の仕方と同じで、極めて惡質な歪曲と矮小化であると言つてよい。
松原氏の「天皇はなくならない」論は、『天皇を戴く商人國家』等にあつた筈だが、要は「天皇が無くなつたら日本人も日本人ではなくなる」と云ふ事であつて、單純に「天皇はどんな事をしてもなくならない」と云ふ樂觀論ではなく、俺は寧ろ悲觀論だと理解してゐる。
この點、「アンチ松原」である喜六郎は(當人は「アンチ松原信者」と稱してゐるが、「松原信者」を貶める爲に喜六郎は何時でも「教祖」を貶めるから「アンチ松原」以外の何物でもない。「信者」を「ターゲットにしてゐる」と言ふのは、實は言ひ訣であつて、喜六郎の標的は何時でも松原正氏本人である)、わざと「樂觀論」と「看做す」事によつて、松原氏の意見を殊さら「駄目」なやうに見せかける(それによつて、「それを信じてゐる『信者』」もまた「駄目」だと言ふ訣だ)。その後、「あとは毎度おなじみの「政治主義批判」と文章添削。」と「パターン分析」を輕くして見せ、「伝統芸能」と言つて小馬鹿にする。「喜」の攻撃パターンそのものだが、この種の安易で輕佻浮薄な非難をして、「喜」は安心してゐる。

そこに「引用ミス」問題が起きて、喜六郎は飛び上がつて喜んだのだが、アンチの連中は「何が松原氏の論文の主眼か」を理解してゐなかつたから、「ミス」の部分が「ある」と言出され、はつきりした「攻撃目標」が出來て、ますます松原氏の意圖を理解する氣をなくしてしまつた。松原氏は不幸だと思ふ。
「正論」本誌でも、「わからない」と云ふ投稿を老齡の人々が寄せてゐたが、どうも「わからない」人には「わからない」ものらしい。
或程度、柔軟に物を考へられる人ならば、松原氏の言ふ事は「わかる」筈。「わからない」と言つて松原氏に責任を轉化するアンチの連中は、頭が固い、惡い意味での「保守」なのだらう。斯う云ふ「保守」は、今の日本に増えてゐる。この種の「保守」が、保守思想や右翼の思想と結び附く機會が増えてゐるから、今の日本は「右傾化」してゐる。けれども、一時代前までは頭が固いと云ふ意味での「保守」の人々が、革新思想や左翼の思想と結び附いてゐた。
何れにしても、この手の人々の「頭が固い」と云ふ問題は續いてゐるので、左傾が右傾に變つたところで世の中少しも良くはならない。
この種の「保守」傾向は、要は官僚主義的傾向であり(例のもと國營企業の社員がゐるのを見れば、良く解る事だ)、日本の宿痾だが、日本人はこの大問題を解決する氣がないし、そもそも問題だと認識してゐない。
福田恆存にしても松原正氏にしても、この手の「官僚主義」を憎んだのであり、だからこそ理を盡して「それ以外の人々」に訴へかけたから、「それ以外の人々」から歡迎されたのだが、例外的な日本人は典型的な日本人に比べて何時でも少數派であり、「官僚主義」の人々にとつて「少數派」である事はそれ自體として攻撃を仕掛けて良い當然の理由となる。

福田氏の言ひ方を借りれば、さう云ふ「官僚主義」が日本に「ある」事は歴史的必然で、認めねばならないが、それを全てよしとする事はできない――全てを惡と見るのである。