闇黒日記?

にゃもち大いに語る

粘着・アンチ・ネットストーカーと云ふ「病理」

インタラクティヴなウェブに於て重大な問題であるにもかかはらず、個人レヴェルの問題であるがゆゑに公的には殆ど認識されてゐない事がある。それは、ウェブで活動してゐる特定個人に對して、無名で匿名の人物が個人攻撃を仕掛ける、粘着行爲、ネットストーカーと云ふ行爲の問題である。

彼等は、何かのきつかけで、名前の通つたネットワーカに反感を持つやうになる。反感を持つてゐても、内部に抱へ込んでゐるだけなら問題はないが、それを表に出して――特に今のインターネットでは自由に物を言へる環境が整つてゐるから、實に大きな態度で以つて、攻撃者としての姿を示し、氣に入らない人間に對して、威嚇的で侮辱的な態度を見せるやうになる。それを繼續的に行ふやうになれば、粘着であり、ネットストーカーである。

彼等粘着アンチのネットストーカーは、ひたすらターゲットの人物の「惡」を「糺彈」する。「こんなに惡い人物が、インターネットで大きな顔をしてのさばつてゐる」「ところが、この惡い人物が言つてゐる事は全て間違ひである」「この惡い人物は、間違つた事を言つてゐる癖に、非常に大きな顔をし、ウェブに害惡を垂れ流してゐる」――粘着は、さう宣傳して、ターゲットの人物の評判を落さうとする。結論は「このやうな惡質な人物に、ウェブで發言させ續けては行けない」だ。この結論を引出す爲に、粘着は手段を選ばない。

實際にターゲットが間違ひを言へばそれでよし、しかし言出さない時は、解釋で「誤」を「言つた」事にしようとするし、臆測・邪推をもとにスキャンダルをでつち上げて大騷ぎして「問題が起きた」と稱し、全ての責任をターゲットにかぶせて、自分逹は氣樂に石を投げて遊ばうとする。

重要な事だが、粘着は「正義」面をするか、或は僞惡者を氣取つて其の實自分に正義がある事を確信してゐるやうに振舞ふが、實は他人を貶めて快を貪る事が彼等の目的である。彼等粘着が、ターゲットを貶めてゐる時の「表情」――口調は、大概歡喜に滿ちたもので、はたから見てゐると、をかしいくらいだ。本當に樂しさうに粘着は標的の人物の人格を貶めてゐる。

虹裏で粘着がスレを立てて氣樂に他人を罵倒してゐるのを見て「」の多くが嫌な氣分になつた。好い氣になつて他人を侮辱してゐるのだが、空氣は讀まず、周圍の状況お構ひなしに自分の好きな事を言ひたい放題言つてゐるのだから當然だが、粘着には自分が好き勝手言つて周圍の人々の不興を買つてゐる自覺はない。自分が「正しい事を言つてゐる」と云ふ勘違ひをしてゐるからだ。非難されると、正義に楯突く思ひ上つた人間が出て來やがつた、と彼等は思ふ。
粘着は「自分は良い事をしてゐるんだ」と云ふ意識から脱けられない。彼等の特徴は、批判を受容れず、自分の行爲を反省しない事である。彼等粘着は、自分を非難する人間を「信者」と言つて罵倒し、嘲つて、却つて好い氣になる。だからこそ粘着は嫌はれるのだが、掲示板で散々非難されても理解出來ないのだから――例へば「ブログ」で粘着してゐる「喜」に自分が如何に他人に嫌はれる行爲をしてゐるのかは理解できない。

粘着にも仲間は出來るし、さう云ふ連中は一緒になつて特定個人を叩くが、そのメンバーは決つてゐて、大體同じやうな性格・品性の持主である事が周圍には知られる事になる。本當に何人かの固定メンバーが集つて、特定の人物を評的に攻撃するのだが、當人は自分たちが客觀的に正義を行使してゐるのだと云ふ信念を持つてゐて、仲間ではなくただ同じ目的で行動してゐる赤の他人だと常に言張る。が、彼等が仲良くしてゐる事は、周圍の人間にははつきり判つてゐる。

彼等粘着・ネットストーカーには、自分が惡い事をしてゐると云ふ自覺がまるでない。自分が誤つた事を言つたとしても、それをはつきり指摘された時にすら、反省しない。ひたすら「惡いのは誰某」と言ひ續け、その「誰某」を默らせる爲に、徒黨を組んで嫌がらせを仕掛け續ける。
「正義」の行動だと云ふ勘違ひが彼等をこのやうな暴力行爲に走らせるのだが、彼等は自分逹の行動を「正義」だと明言しない。ただ「惡いのは誰某」と云ふ「錦の御旗」を掲げて、それだけを根據にひたすら暴走し續ける。
このやうな手合のターゲットにされた人間は不幸である。彼等粘着のつける因縁に、まともに答へても相手にされないし、そもそも彼等は何んな人間にも不可能な要求を吹き掛けて、それを出來ないと言つて「誰某」氏を論破した積りになつて、嘲り、侮辱し、人格を貶めて、快を貪る。
このやうな惡質な存在は何とかしなければならないが、世間の人は問題として認識してゐない。