闇黒日記?

にゃもち大いに語る

俺は粘着されてゐるから反省しない

俺は喜六郎や「義」、その取卷きの「一読者」「哲学徒」、或はもと國營企業の社員らに粘着されてゐる。彼等は俺に對して個人攻撃を仕掛けてゐて、俺の「いんちき」だの「誤」だのを頻りに論ひ、非難してゐる。

だが、彼等は、眞實を明かにする爲の議論を挑んで來てゐるのではなく、個人攻撃の爲の論戰を仕掛けて來てゐるのだ。

彼等は、自分逹の誤を指摘されても、絶對反省しない。自分の事は絶對反省しない。自分逹の事は棚に上げて、ひたすら俺を陷れるだけのために攻撃を仕掛けて來てゐる。
彼等が反省しないのは、隙を作らない爲だ。彼等は戰つて勝利する事だけを目的に戰ひを仕掛けて來てゐる。だから隙を作らない事は彼等にとつて必要な戰術だ。

こちらも、有意義な論爭ならば眞面目に應對するが、ナンセンスな論戰だから彼等に眞面目に應答する積りはない。ただ、こちらが無爲無策で負ける事は、彼等をつけ上がらせる事になる。それはこちらの活動にとつて大變な障碍になる。だから俺は負ける訣には行かない。下らない論戰だが、囘避する訣にも行かないから、仕方なく彼等に附き合ふしかない。
彼等が負けない爲に隙を作りたがらず、そのため眞摯に反省しようとしないのならば、それに對抗する爲には、こちらも殊さら反省して見せる愚は避けねばならない。彼等は、こちらが反省すれば、それを隙と見て、攻撃のチャンスと看做して、喰らひ附いて來るからだ。


粘着・ネットストーカーと云ふ「現代の惡魔」に對抗する爲には、こちらも「魔性の力」を持たねばならない。「反省しない」と云ふのもまた、惡に屈しない爲の一つの戰術に過ぎない。
俺個人の内部が何うであるかは、しかし「惡魔」である彼等粘着・ネットストーカーになど決して解りはしない。解つてたまるか。喜六郎らインターネットの「惡の樞軸」の連中に、俺は決して屈しない。惡意でもつて個人をいたぶつて喜ぶやうな喜六郎らに、俺は屈する訣には行かない。