闇黒日記?

にゃもち大いに語る

俺個人に執着するストーカー氣質の喜六郎

俺がたつた一度間違つた事を言つただけなのに「完膚無きまでに論破された」等と大袈裟に言つて俺を侮辱する文章をしつこく書き續ける喜六郎。

そんな喜六郎が、またぞろ珍妙奇天烈な發言を始めた。

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/95.html
つまり野嵜健秀は、帝國憲法のほうが現行憲法より先に制定されていたのだから、断固として帝國憲法を維持しなければならないと説いているのである。
だったら、何で帝國憲法よりも先に存在していた律令を維持せよと主張しないのだろうか?
律令は帝國憲法よりも遥かに長い歴史を有する。
「一度歴史的に生じた「虚構」は、どんな事であらうと維持し、繼續して行かなければならない」のであれば、律令を「どんな事であらうと維持し、繼續して行かなければならない」んじゃないのかえ?
何が「ないのかえ」だか知らないが、當人は自分が面白い事を言つた積りでゐるに違ひない。喜六郎は頭が惡いから、頭の惡い事を言ふと、面白い事を言つた積りになれるのだらう。喜六郎はさう云ふ頭の惡い人間だからこそ、俺(野嵜)の言つてゐる事を故意に頭の惡いやうに解釋して、逆に俺(野嵜)の方こそ頭が惡いのだと考へてしまふ。頭の惡い奴は、他人を自分の頭の程度に合はせて矮小化して、馬鹿にするものだ。

律令大日本帝國憲法は連續的なものではない。當り前だ。當り前の事を言つて喜六郎は「事實を述べた」積りでゐる。が、「事實」を言へば良いと言ふものでもあるまい。それが「いい」と思へてしまふのが、喜六郎の頭の出來を示してゐる。
常識的に考へても、律令憲法ではない。法律だ。法律と憲法が連續しなければならない等とは訣のわからない理窟だ。もちろん、俺を論破「した事にする」爲には、もつともらしい「理窟」を言つて見せなければならないから、喜六郎は淺薄な理解に基いて「それつぽいこと」を言つて見せたに過ぎない。彼には「イエスマン」しかゐないから――いやいや、彼の言つてゐる事については何も言はずに、ただ俺の惡口を一緒になつて言ふだけの「お仲間」しかゐないから、喜六郎は自分の言つてゐる事が珍妙奇天烈である事にすら氣附けない。彼は、「敵」である「松原信者」が何を言つても「松原信者が言つた事だから」と言つて全て「間違ひだ」と極附けて無視してしまふ。素晴らしい敵身方思考だが、さう云ふ喜六郎が俺の事を「敵身方思考の政治主義者」だ等と言つて侮辱するのだかをかしい。閑話休題

明治になつて近代國家となる事を決めたから、日本は大日本帝國憲法を定めた。それは正しい事だ。それ以前の體制と違ふのだから、新しい憲法を作つて何の問題もない。
だが、一度近代國家としてやつて行く事を決め、現在も明治以來の近代國家としての體制を維持してゐる積りであるのなら、明治以來の憲法を維持しなければならない。そんな事は當り前の話だ。ところが喜六郎には「明治以來」と云ふ事が理解できない。彼はただ「古ければ歴史」と云ふ理解しかできない。その程度の頭だからだ。

歴史的かなづかひにしても、明治政府が近代化の爲に近代的な表記として採用したものであり、その明治政府以來の近代日本の一貫性を維持する爲には表記もまた一貫してゐるべきだ。もちろん、それ以前とも繋がつてゐていい。憲法と表記とはまた話が別だからだ。
しかし、憲法は表記とは違ふところがあるのであつて、國家體制と一體のものであり、一貫した國家體制が「ある」限り、憲法も一貫したものであるべきである。

明治以來の日本政府と、敗戰後の日本政府とは、一貫した「同じ政府」であるべきである――と云ふのが俺の主張だし、福田恆存の主張でもあつた。其處に斷絶を「作らう」と云ふのが、大日本帝國憲法が「消滅」し、「日本国憲法」が新たに「發生」したと主張する人々の主張だ。だが、そんな事は事實として存在しないし、理論としても成立たない。「八月革命説」のやうな「理論」は、喜六郎のやうな、自分に都合よく話を展開しようと思ふ人間の爲に存在する惡質な「理論」であつて、存在自體許しがたい。

そもそも、喜六郎は憲法論爭をしたいのではなく、ただ、俺・野嵜を攻撃する材料として憲法を利用してゐるに過ぎない。それが許しがたい。なぜそんなにも喜六郎は俺個人に執着するのか。俺にそんなに執着したいと思ふ喜六郎の精神は異常だ。病院に行つた方がいい。