闇黒日記?

にゃもち大いに語る

アンチは「信者」の言ふ事のみならず、同じアンチの言ふ事も理解しない

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Re: 評論家は食えない 投稿者:名無し 投稿日:2008年12月12日(金)23時52分55秒   返信・引用
> No.324[元記事へ]

喜六郎@管理者さんへのお返事です。

> あと野嵜は「評論の地位が低いのは、評論家を目指す若い人が皆無であるからだ」とか
> 書いてるけど、若い人が評論家を目指さないのは、評論家じゃ食っていけないというの
> が大きいと思う。
> 評論家なんて大学の教員でも兼業してないと生活していけないでしょう。

全くその通り。「評論家」「文芸評論家」の肩書きも「自称」という言葉をつけた方が
正確な人物も多い。無免許法学者は論外として、前田嘉則も評論家コンプレックス、
文芸評論家コンプレックスが見え見えだな。彼も「福田恆存の系譜に連なる評論家」と
して世に出たいのだろう。国語論はともかく、時事問題を論じた途端、馬脚をあらわす。
高校の教員の限界を見る思いがする。ブログの連載が一応終わったものの、まだ言い足
りないのか、番外編なんて始めた。ブログで書き続けていれば、新聞社か雑誌社から
お声がかかると思っていたのか。だとしたら、それはあまりにも甘い考えだ。まずは
何か賞を獲ることからでも始めないと、新聞でも雑誌でもビジネスモデルが根本的に
変わりつつある今だと、おそらく駄目だろうな

小谷野敦が大学内部の醜い人間関係をブログでしばしば暴露しているが、先日もある
学会で、少女マンガにおける1970年代後期のジェンダーについて発表していた糞
フェミ女に、長老が激しく噛みついて「この学会への冒涜だ」と罵倒していた。趣味
を「研究対象」にしてもっともらしく論文に仕立てあげて専任講師、准教授、教授と
なれるのは本当に一部の人間だけ。そこから落ちこぼれた無数の人間が塾講師などで
口に糊しながら、ネットでブログなど開設して評論家ぶった口ぶりで「チラ裏」まが
いのことを書くのだろう。「評論家未満」が、そこかしこに溢れる現代ニッポン。
喜六郎の掲示板に前田批判が書込まれてゐて俺は内容を讀まずに快哉を叫んだのだけれども、笑ひ、連中が俺を叩く喜六郎の文章を見ても俺と同じで内容を讀まずに快哉を叫んでゐるだけなのだらうと思ふ。

いろいろと 投稿者:哲学徒 投稿日:2008年12月12日(金)23時30分11秒   返信・引用
>哲学徒さんが書くなら、俺などがあれこれ書く必要はない。
そんなこと言わないで、考えや例(考えるのに役に立つ話等)があるなら書いてくださいな。
参考にしたいです。

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>喜六郎 さん
>地獄の箴言、あのアホコンビの私物と化したな。
ブログはもともと私物みたいなモンだから、別にいいんじゃない?漏れは61個も付いたコメントなんかほとんど読んでないし。

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>一読者 さん
>自分の趣味に「文化財保護」なんて大義メイブンをドッキングさせて
>自分や自分の行為を高尚なものに見せかけるなんて、スノッブのやることだろう。
文化財保護」と野嵜健秀クンが思っているかどうか、全くの漏れの推測です。本人がどう思っているかはわかりません。
一応指摘しておかないと、野嵜健秀クンがここぞとばかりに
「喜六郎の掲示板に集まるヤツはろくなヤツじゃない。阿呆の哲学徒が根拠なく極め附けたことを無条件に鵜呑みにするバカどもの集まりだ」
とか反撃をカマして来そうなので(笑)。
最後に http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html 闇黒日記 平成二十年十二月十一日 より。
>一錢も儲からなくても、精神的にであれ「報酬を得てゐる」のならば、一種の「商賣」である。
んなアホな。だったらブログも個人的満足で書いているなら報酬だから商売だし、スポーツも精神的に報酬を得るなら商売だし、下品だけどオナニーも商売になっちゃうぞ(笑)。
最近の野嵜健秀クンは、悪口が減ったので他章読みやすくなったけど
#平成二十年十二月九日 の聖書の話は非常にわかりづらい。
#道徳について何か書いてあるんだろうから目を通さなきゃ、と思うけれども、あまりの読みづらさにきちんと読むのをやめようかと思っている。
「道徳は身近な人間との関係だ」とか「精神的な報酬でも得ていれば商売だ」とか、歯切れ良い書き方であるのはいいんだけど、何となくその場の思いつきをひょこっと書いたように思えるなあ。
きちんと深く考えた上で、普通の人の感覚と異なることを言っているのかなあ?
漏れにはそう思えないんだが。

以前漏れが「野嵜健秀クンの文章の読みづらさは『言いたいことを隠蔽しながら言う』からだ」と指摘した覚えがあるけど、言いたいことを隠蔽しないで言うと、ヒッジョーに明確だけど内容がむちゃくちゃ、という状況になっちゃってるんじゃないだろうか?(笑)

ま、その程度の思いつきを書くなら、すぐに読み取られないようにわかりづらく書きたくなる気持ちもわからんではないけどね(笑その2)
哲学徒が俺の文章を讀取れないでゐるらしいけれども、鉤括弧附きで「商賣」と書いたのを理解出來ないのに、なぜか「一読者」氏の「スノッブ」なる言葉は理解出來てゐる模樣。
この「一読者」の「スノッブ」なんて言葉は、未定義ならば、「名作を讀んでゐるスノッブ」「名作を讀まないスノッブ」のどちらにでも使へる非常に便利な惡口だから、それこそ注意して讀まなければならないのに、哲学徒には「わかる」らしくてスルーしてゐる。かう云ふところが哲学徒の怪しいところだ。

しかし實際、こいつら、自分逹「喜六郎一派」同士では、まるで批判をし合はうとしない。互ひに互ひを「解り過ぎてゐる」觀がある。
哲学徒は
「喜六郎の掲示板に集まるヤツはろくなヤツじゃない。阿呆の哲学徒が根拠なく極め附けたことを無条件に鵜呑みにするバカどもの集まりだ」
と言つてゐるけれども、鵜呑みにするも何も、互ひに互ひを理解しようとすらしてゐないで、ただ、「野嵜を馬鹿にする」と云ふ目的に向つて一緒に突進してゐるだけなんぢやないかと思ふ。
哲学徒だつて、「敵」の言つてゐる事を理解する積りもなくて、「漏れは61個も付いたコメントなんかほとんど読んでないし。」と平然と言つてゐる。しかし、實は「身方」の言つてゐる事も、ろくろく理解してはゐないのでないか。