闇黒日記?

にゃもち大いに語る

そもそも俺は「松原信者」ではない

喜六郎ら「アンチ松原信者」(これは「アンチ松原」信者でありアンチ「松原信者」でもある)は、俺の事を「松原信者」と呼ぶ。が、これが間違ひである事は言ふまでもない。

なぜなら、「松原教」なるものは存在しないからだ。精々レトリックとして「存在する」と言ふ事が出來るに過ぎない。が、レトリックとしても「松原教」なる言ひ方は存在し得ない。

よろしい。レトリックで語れと言ふのなら語らう。そもそも俺は「福田教」信者であり、その分派「松原派」に屬する者である。

鐵面皮の喜六郎とその取卷きは、「野嵜健秀の現行憲法無效論」と稱してゐる。これも勘違ひだ。なぜなら、俺は何も主張してゐないからだ。俺はただ、福田恆存が「當用憲法論」その他で述べた結論を支持してゐるに過ぎない。俺が「論破された」(なぜ受動態で言はなければならないか。さう言はなければ喜六郎は言ふ事が出來ないからだが、即ち喜六郎の言つてゐる事が根據のないただの惡口である決定的な證據である)と喜六郎は盛に宣傳してゐる。
けれども、俺は論破されない。なぜなら、俺は何も主張してゐないからだ。俺の説明が下手で誤解されても、それで福田恆存の現行憲法無效論は論破されない。それで十分だ。

喜六郎ら「アンチ松原信者」は、俺が福田氏や松原氏の名を利用して、自分を宣傳してゐると主張してゐる。ところが、俺にはそんな意識等全くない。俺はただ、一ファンとしてファンサイトをやり、一ファンとして福田氏や松原氏の主張をインターネットで紹介してゐるだけだ。
もちろん、俺が完全に自己を喪失してゐる訣ではないから、俺自身の主張もしてゐる。が、それは、飽くまでさうする事で俺のサイトが知られるやうになり、結果として福田氏や松原氏の主張が廣く知られるやうになる事を願つての事だ。

なぜ俺が自己を宣傳する目的で福田氏や松原氏を「利用してゐる」と、「アンチ松原信者」らが言つてゐるか――實は、それは彼等自身の事を説明してゐるのである。彼ら「アンチ松原信者」らは――殊に喜六郎は、「松原信者」、と言ふよりも、俺・野嵜を利用して、自分の名前を賣らうとしてゐるのだ。
彼らが匿名の陰に隱れてゐる事は、彼等を免罪する事にはならない。なぜなら、彼らは自己滿足する爲にやつてゐるからだ。彼らは「自己滿足する」と云ふ目的を達成する事を目的に、俺・野嵜を利用してゐる。或は、喜六郎は「野嵜を潰した」と云ふ「戰績」を擧げる事で、「アングラ社會」で自己をアピールしようとしてゐる。
「アングラ社會」では、匿名である事こそが必要なのであり、名前を出さない「謙虚さ」を宣傳する(それこそ傲慢な態度なのだが)事は絶對に必要な事である爲に喜六郎は匿名であり續けてゐるに過ぎない。今、喜六郎が自分の地位・立場・素性を明かにしたら、彼(?)はひたすら防御の側にまはらざるを得なくなる。喜六郎は、他人を攻撃するのに都合がよいのみならず、他人を攻撃するがゆゑに「匿名でなければならない」。喜六郎は「自分は謙虚である」と傲慢にも主張せざるを得ず、だからこそ他人、即ち今は「野嵜」こそが「傲慢である」と威張つて宣傳する事になるのだが、それは自己顯示欲を滿足できないコンプレックスの裏返しに過ぎない。

一般に、「信者」を貶す「アンチ」の人間は、異常な人間であると見られてをり、にもかかはらず「アンチ」は自分がをかしいと自覺出來ず、「信者」を擁護する意見が出ればそれも「仲間だ」と言つて嘲る對象に加へる。それは自己欺瞞であるのだが、彼らは自分の行爲が正義の行爲だと心から信じてゐるから、正當な批判であつても受容れる事が出來ない。「信者」よりも「アンチ」の方が狂信的であると見られるのはその爲だが、世間からさう見られる事が判つてゐるからこそ「アンチ」はますます「信者」を憎む。自分の行爲が如何に惡辣で、異常であるかを見せ附けられるのを、「アンチ」の人間は非道く恐れ、それゆゑ批判を全て「信者の取卷き」のする事として排斥しようとする。

「アンチ」の人間は、だから、自分と同じ事を言ふ取卷きを持ちたがるし、自分に反對する人間を「信者」の側に繰込んで、批判を排除しようとする。彼らは對話を拒絶してゐる。
議論は、雙方が對話する意志を持つ事を前提とする。一方が他方をただ侮辱し、嘲笑し續けるだけでは、議論は成立しない。相手の言つてゐる事を、虚心坦懷、笑ひ、に眺めて、公正な立場から批判する――それによつて初めて議論は成立する。喜六郎ら「アンチ」の人間には、相手の言つてゐる事を眞面目に受取る心の準備が無い。喜六郎は、自分に反對する人間には「信者」だの「翼贊者」だのと言つたレッテルを貼るのが「當り前」であると思つてゐるし、實際、さう云ふ事を、例へば塗炭氏に對して、やつてゐる。レッテル貼りをするやうな人間が議論を出來る訣がないが、さう云ふ人間が他人をまともに批判する事も出來ないのである(そもそも「信者」等と云ふ言ひ方がレッテル貼りだ)。他人にレッテルを貼つて、その主義・主張を極附けて、自分に都合の意いやうに相手の言ふ事を歪曲し、それで相手の發言を封じ込めようとする――それは政治的な手法であり、非人間的であるが、さう云ふ戰術を當り前の事と思ふのは、政治主義的人間の常である。彼らは、手段を選ばず、氣に入らない人間を人間とも思はず、やり込める、それを正義だと思つてゐる――正義とは政治の領域に屬する觀念だ。

喜六郎の非人間的な態度は――即座に彼(?)が道徳的に不潔である事を意味し、彼が傲岸不遜な自己中心的な人間である事を意味するが――日本のやうな政治主義の蔓延した社會では案外強力な支持者を得る。だからこそ、彼には取卷きが出來てゐる。
もつとも、匿名を使つてゐるがゆゑに、彼の取卷きの發言が、彼自身の自作自演によるもの「でない」とする決定的證據も存在しない訣だが、別に自作自演だらうが、本當に複數の人間がゐようが何うでも良い。何れにしても異常な人間が「ゐる」と云ふ事實だけが「ある」のであり、さう云ふ異常な人間だからこそ「アンチ」に「なる」と云ふ事は、一般論として言つて良い。
異常な人間だからこそ、妄想にとらはれ、存在しない「敵」をでつち上げて、戰ひを挑む――セルバンテスドンキホーテは、文學で描かれた最初のヲタだが、風車を敵と思ひ込んで突撃した。ヲタだからこそドンキホーテは愛すべき存在なのだが、一方、俺に突撃を續ける喜六郎はヲタを侮蔑する人間で、政治主義者だから、人からは決して好かれない。喜六郎から「松原信者批判」をとつたら何うなるか。「喜六郎の小屋」から「松原信者」カテゴリに屬さない記事を幾つ見出せるだらう。音樂ファンだと喜六郎は自稱してゐるが、喜六郎の音樂趣味を慕つて集つて來た喜六郎ファンは何人ゐるだらう。喜六郎は、ただ、「アンチ松原信者」――と言ふより「アンチ野嵜」であるがゆゑに、同じ「アンチ野嵜」の連中から、政治的に利用されてゐるに過ぎない。自分が「政治的に利用されてゐる」と自覺しないのも政治主義に淫した人間の特徴だが、或意味哀れである。