闇黒日記?

にゃもち大いに語る

野嵜が「論破された」と主張する無意味

喜六郎は盛に「野嵜の現行憲法無效説は論破された」と宣傳してゐる。「誰が論破したのか」と問うたら喜六郎は答へられないから「論破された」と日本語の曖昧さを今囘も便利に使つてゐるが、誤魔化しである。

喜六郎は、俺が一度間違つた事を言つたから「野嵜の現行憲法無效説は論破された」と云ふ「理窟」を言つてゐる。ところが、間違つた事を「言つた」だけでその説が「論破」される事はない。
俺が相對性理論の話をしてゐて一つ間違つた事を言つて、そこを相對性理論を否定する人が頻りに突つき、「野嵜の相對性理論は論破された」と主張したら何うか。アインシュタインも失笑するだらう。

ところが、喜六郎も失笑するのである。自分の愚かな「理窟」が、喜六郎には見えないからである。これこそ喜六郎の道徳觀念が異常である事を證してゐるのだが、喜六郎の述べた道徳觀とやらでは「田村書店の外の無料箱から本を貰つて來るか來ないか」が決定的にその人間の道徳的價値を決めるのだと云ふのだから御話にならない。喜六郎にとつては道徳もまた他人を侮辱する根據に「利用するもの」だからだ。

喜六郎は「野嵜が論破された」と言ふ。なぜ「野嵜」に拘るのか。
俺は何時でも人の人格ではなく説の正邪を問題にする。然るに喜六郎は説の正邪よりも人の人格を問題にしたがる。喜六郎は、他人を罵る事だけが好きなのであり、俺にとつて罵倒の言葉は序でに過ぎない。ところが喜六郎にはそれがわからない。喜六郎には、自分が發する侮辱の文句が「侮辱の文句である」と自覺出來ない――或は、自覺した上で、「正しい」と傲慢にも思つてゐる。そればかりか、さうやつて喜六郎は他人を斷罪する事を樂しんでゐる。彼は、自分が道徳的な權威であり、他人を道徳的に斷罪する權利があると、傲慢にも思つてゐる。だからこそ「野嵜は」「野嵜は」と、執拗に個人を云々する。
俺はそんな事をした事がない。もちろん、俺も惡人を惡人と言ふけれども――「義」のやうな惡黨を惡黨と呼ばない喜六郎のやうな人間こそ人間ではなからう。歴然たる犯罪をやらかしてゐる人間を俺は惡人と言ふが、さうでない人間を、特に道徳的に斷罪しようとして、執拗に責め立て、何年もまとはり附き、粘着するなんて異常な眞似はした事がない。

然るに、喜六郎は、他人を道徳的に斷罪する事のみに興味を持ち、その爲に「敵」を作り、剩へその「敵」を斷罪する目的でその主張を歪曲し、自分に都合の良いやうに「愚かしく」作り變へ、自分の頭の程度に合はせて改變し、さうして罵つて、「敵」を斷罪し、快を貪る。喜六郎が快を貪つてゐないと云ふ證據は何一つ無い。そればかりか、同じやうに惡口を取卷きに圍まれて、好い氣になつてゐると思ふ方が普通である。少くとも、「一読者」や「哲学徒」のやうな連中が、好い氣になつて俺を貶めてゐるのを、喜六郎は咎めないし、逆に匿名の連中は喜六郎の惡口が記事になつて公開される度に如何にも嬉しさうなコメントを寄せる。彼らが全員、「野嵜」と云ふ個人を叩く快感に醉ひ癡れてゐる事は、第三者が見れば火を見るよりも明かな事だ。彼らが如何に釋明しようと、彼等の今までの言動が證してゐる。
それは、彼らが本當の事、正しい事、眞理、或はそれに類する事に全く興味が無く、ただ、「個人を叩く」快を貪る爲に、理窟や知識を利用してゐるに過ぎない事を意味する。喜六郎は、「人間はゴシップを好むものである」等と言ふだらう。しかし、ゴシップの類を好むスノッブ的な態度を「良い」と言ふ事は誰にも出來ない。「好むものである」だから「好むべきである」――「である」を即座に「であるべきである」に言換へるのは、論理ではない。

批判は自由社會にあつて我々全員が受容れるべきものである。けれども、批判と批判でないものとは嚴密に區別さるべきである。喜六郎は、ただ、自己の行爲を正當化するだけの爲に「自分のしてゐる事は批判である」と主張する――いや、卑怯な事に、喜六郎は「批判」と云ふ言葉を使はない。彼(?)は、より曖昧な「叩く」と云ふ言葉を便利に使ふ。これこそ喜六郎が批判と云ふ事を理解せず、批判以外の行爲をしてゐる決定的證據なのだが、頭が良いから、笑ひ、喜六郎はそれを認めない。
しかし、さうやつて喜六郎が「自分の頭の良さ」を宣傳し、匿名であるがゆゑに自己満足に浸る事が出來ても、それで世の中何うなると言ふ訣でもなく、そもそも喜六郎の讀者を裨益するものでもなく、喜六郎の言葉は何も意味をなさない。喜六郎は何をしたいのか。自分のしてゐる事が「空しいのかも知れない」と時々反省してみる事は、有意義な經驗である。