闇黒日記?

にゃもち大いに語る

理念の話を出來ない喜六郎


おなじみ喜六郎氏。

はしもと…じゃなかった、野嵜健秀は自分の「現行憲法無効論」を批判した人を「現行憲法信者」と決め付ける悪癖があるが、私は別に「現行憲法信者」ではない。
私も一応、民主主義者なので現行憲法は尊重する。しかし明治憲法であれ現行憲法であれ、憲法聖典視することは絶対にしない。
私に言わせれば、明治憲法聖典視する野嵜健秀と、現行憲法を「平和憲法」などと称して有り難がる「九条の会」の如き「平和憲法信者」は大して変わらない。

「はしもと」つて何だらう。この人は何時も斯う云ふ要らない一言を言ふ癖がある。なぜ「はしもと」と言はねばならないのだらう。その邊、聞いても喜六郎は説明できないが、説明できない事を聞かれると答へないのも喜六郎である。

それにしても「憲法聖典視する」とか、何處から涌いて出てきた言葉なのだらう。俺だつて、大日本帝國憲法を「聖典視」等してゐない。だからこそ俺は大日本帝國憲法を復活させたら即座に現代的に改正する必要があると言つてゐる。喜六郎は俺が「聖典視」してゐると何處を見て判斷したのか。この人は斯う云ふ嫌な言ひ方をして、俺に當てつけると同時に、俺のアンチを喜ばせようとする。媚びてゐるんだよ。

あと、喜六郎にも俺の事を「松原信者」と極附ける惡癖があるよな。しかし福田恆存であれ松原先生であれ、人間を神と混同する事は絶對にしない。云々。

つづき。

野嵜健秀は、明治憲法を復活させた上で改憲し、より「民主的」な憲法にすればよいと宣うが、そんな簡単に事が運ぶとは思えない。

俺の現行憲法無效論に反對する人が決つて言出すのが、「現實的に無理」と云ふ「論法」。これは何度となく言はれてうんざりしてゐる。

……貴族院、すなわち華族を復活させねばならない。
、選挙という国民の審判を受けない貴族院議員が国政を左右するのは非常に危険だと思うのだが、野嵜健秀はそこら辺の問題をどのように考えているのだろうか?

典型的な左翼だな――と言ふと、喜六郎は「惡癖」だの何だのと惡態を吐くのだが、同じ文句で喜六郎が木村さんを罵倒したのを俺は覺えてゐる。

貴族院を復活させる必要はなくて、參議院が代行すればいい。それだけの話だ。形式だけ合せれば良いのだから、細かい所は憲法學者が辻褄合せすれば良い。辻褄合せは憲法學者の仕事だ。
斯う云ふ時だけ殊さらに「嚴密主義」を發揮して見せるのは、牛歩戰術と同じで、相手をうんざりさせる事が目的の、本質から外れた議論の仕方だ。喜六郎は、本質的な議論が出來ない人間だから、その邊の人と同じで、システム作りに血道を上げる。
「過去の貴族院そのもの」を復元し、其處に存在する議員を當時と同じかより封建的な精神に豫め洗腦し、現代の民主主義の社會に全く適應できないやうな人間にしておいて、さう云ふ連中に改正の討議をさせよ――喜六郎は、如何にも典型的な左翼の考へ方を持出して、「さあ、どうだ」と嬉しさうな顔をする。これは喜六郎が護憲派の左翼と全く同じ精神を持つてゐる事の證據である。喜六郎自身は「野嵜がさう言つてゐるんだ」と反論するだらうが、勝手に人の「言つてゐる事」を極附けてゐるのだから、發想してゐるのは喜六郎自身であり、さう云ふ考へ方を喜六郎が持つてゐる事實を意味する。現在の參議院をその場だけ貴族院と改名でもして、參議院議員を貴族院議員に仕立て上げれば十分だと思ふ。目的は、改正の爲のシステムを整へる事ではなく、改正をする事なのだ。一々システム作りをしたがる喜六郎は何なのだらう。ごつこ遊びが好きな子供と何も變らない。

しかし、喜六郎に限らない、日本の憲法の專門家は皆、護憲派であり、「さあ、どうだ」式の脅迫的な言辭で以て現行憲法無效論の論者に迫り、ひたすら「現實」を突きつけて反論を封じようとするのである。日本人はごつこ遊びが大好きであり、システムの話をするのが大好きである。システム作りが出來るか出來ないか、その事許りを話し合ひ、重箱の隅をつつくやうな指摘をして相手を困らせ、うんざりさせる。お役所仕事に迷惑してゐる割に、役人根性は日本人一般に染みついてゐる。


問題は現實の手續きではない。それは福田恆存が夙に指摘したところである。福田氏は、大日本帝國憲法それ自體でなく、憲法の概念をこそ守りたいと主張したのだ。これは、喜六郎のやうな「憲法聖典視することは絶対にしない。」等と言ひつゝ、その實、憲法の觀念を尊重しない人間とは、發想が根本的に異る。飽くまで憲法と云ふ概念の權威を守りたい――福田氏は、大日本帝國憲法の條文が現在そのまゝ通用するなどとは思つてゐなかつた。しかし、だからと言つて、不合理な形で成立し、通用させられてしまつてゐる「當用憲法」を認める訣には行かなかつた。それでは憲法の權威が失はれてしまふからだ。憲法は、改正されるとしたら、法的に(=形式的に)妥當な形で改正されなければならない。敗戰のどさくさ紛れに「新しい憲法」が作られ、それが通用してゐるからと云ふ「既成事實」の「論理」でごり押しされたら、憲法憲法としての力をいざと言ふ時に發揮し得ない――すなはち、權威を持たず、權威の效能を發揮できない。
福田氏の現行憲法無效論は、大日本帝國憲法それ自體の信奉・擁護を目的としたものでなく、「大日本帝國憲法を改正する」事によつて戰前・戰中と戰後との間の斷絶を埋めようと言ふものだつた。福田氏が國字改革に反對したのも、根本的には戰前と戰後に連續を持たせるべきだと云ふ考へに基いたものである。
斯うした考へ方に反對する喜六郎は、戰前と戰後との間に斷絶を作る事を良しとする考へ方をしてゐるのであつて、それは當然の事ながら左翼的であり、革新主義的である。西尾幹二西部邁が「現代の國語表記」に固執してゐるのを、松原先生が批判してをられるのも、保守主義を標榜しながら國語の傳統を斷絶する事に賛成するのが矛盾であるから――或は、その保守主義が傳統の保守でなく飽くまで政治的なタカ派を意味するに過ぎないからだ。
喜六郎は傳統や歴史を守ると云ふ事に全く興味が無い。ただ刹那的に生きてゐる享樂主義者である。
喜六郎は、自分が「~でない」「~でない」と必ず言ひ、自分の立場をぼかさうとする。斯うしたやり口は、國字問題で表音主義者が必ず用ゐたもので、福田氏が大變嫌つたものだ。自分の立場を鮮明にしなければ、他人の立場を非難する事は簡單である。喜六郎は、さう云ふ意味で「匿名」の立場に立籠り、他人の揚げ足をとつて喜んでゐるに過ぎない。過去にも繋がらず、未來とも無縁な「現代と云ふ刹那に生きてゐる」喜六郎は、だからこそふざけた事許り言ふのであり、或は、だからこそ「無道徳」である訣である。粘着アンチである事を喜六郎は愧ぢないが、常識を持つてゐる人間ならば斯う云ふ××××じみた事はしない。アンチは荒しだと虹裏の「」も言つてゐた。

しかし、アンチならアンチらしく、自分の攻撃目標である「信者」の公開してゐる文書くらゐ讀んでおくべきではないかね喜六郎くん。
喜六郎の批判が既に論破されてゐる事は、以下の文書を讀んでゐれば明かだ。


喜六郎は、俺が公開してゐる文書を讀まず、ただ「ブログ」の文章だけを見て、適當にそれつぽい事を言つてゐるに過ぎない。攻撃相手の事を知らないで攻撃してゐる訣だ。
これを知的怠惰と言はずして何と言ふべきか。喜六郎は自分が知的怠惰な人間でないかと反省する能力が無い××××だし、俺が「信者」であるがゆゑに俺の非難を非難としてまともに受止める事も出來ないから、俺が何を言はうが反省することなどないだらうから、何を言つても無駄だらうが、一往言ふべき事は言つておく。