闇黒日記?

にゃもち大いに語る

またぞろ「甘え」――それ以外に言ふ事は無いのか

立派な人間であると以て自任してゐる喜六郎が、また「甘え」と云ふ言葉を使つて他人を叱つてゐる。

この人は何時も何時も「甘え」と言つて他人を罵る。他に言ふ事はないのだらうかと俺は思ふのだが、俺が思つたところで喜六郎は何とも思ふまい。人を人とも思はないからである。


「甘え」こそ排除すべき事である――さう喜六郎は心から信じてゐるのか。しかし、それは精神論だ。
精神論だけでは敵に勝てない。かの大東亞戰爭で日本人は學んだ筈だつた。ところが喜六郎は未だに古い古い日本人の考へ方に固執してゐる。
――いやいや、喜六郎は本當はそんな精神論等に興味が無い。ただ、「甘えるな」と言ひたいだけなのだ。
「甘えだ」と云ふ非難は、自分が「甘え」てゐない、一人前の大人である、と云ふ「高い意識」に基く非難だ。そして、相手は「意識の低い」ガキである。……。
裏を返せば、喜六郎は自分の「意識の高さ」を誇つて、「意識の低い」他人を罵倒して喜んでゐるのである。

――が、さう云ふ行爲を、喜六郎は許せないのではなかつたか。


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財界連中は、景気の良いときはやれ「小さな政府」だの「自己責任」だの言っておいて、景気が悪くなった途端手のひらを返して政府さまにお縋りするのはあまりにも身勝手すぎる。
自己責任論の権威(?)、金美齢女史には是非とも自動車産業の経営者達を市価って欲しい物だ。

「市価って欲しい」は「叱って欲しい」の誤だらう。經濟の話だから「市価」と洒落て見せたのかも知れないが、單なる誤變換に過ぎまい。いづれにしても、面白い洒落ではない。閑話休題

喜六郎は「あまりに身勝手」とか、一見尤もらしい言ひ方をしてゐる。なるほど、誰も反論出來ない「正論」ではある。が、だからこそ、多くの人が騙される訣である。
少くとも、喜六郎自身は騙しおほせてゐる。

一體、喜六郎は、「財界連中」に、何を期待してゐるのだらうか。と言ふより、何かを期待してゐるのだらうか。

そもそも、重要なのは、「財界連中」なる存在の、態度を道徳的に云々する事だらうか。

「財界連中」とは、何なのか。
具體的には、誰の事なのだらうか。
――ああ、「具體的に」。喜六郎は、何時も曖昧に、漠然とした事を言ふ。「財界連中」! 「財界」の「連中」……「連中」、である。「松原信者」「福田恆存の一部の読者」――曖昧模糊、茫として、掴み所が無い。
喜六郎の發言は、何時もこれである。ひたすら一般論を言ひ、「正論」を唱へて、具體的には何も言はない。ただ、時として、氣に入らない特定の個人を中傷するだけである。

喜六郎は、誰かに、反省して貰ひたいのだらうか――誰に反省して貰ひたいのだらうか。反省すれば、許すのだらうか。
金美齢は「市価」つてゐないらしい。然るに、喜六郎は今、「市価」つてゐる。

――何時も何時もさうだ、喜六郎は、叱つてゐるのだ。

しかし、叱るには資格が必要でないのか。少くとも、叱られる人間よりは立派である筈だ。喜六郎は立派であるらしい。が、本當に喜六郎は立派だらうか。

喜六郎は、自分が「立派な人間だ」と主張してゐる。「立派な人間」である喜六郎は、立派でない他人を叱り附けてゐる訣である。
が、誰を?
「財界連中」――曖昧模糊としてゐる。具體的には誰を叱つてゐるのだらう。叱つて何うしようと言ふのだらう。叱つたら何うにかなるのだらうか。
喜六郎が叱つたところで何うにもならない。そもそも「俺は叱られたんだな」と思ふ人間がゐない。
一見、もつともらしく見えるだけ、「正論」に見えるだけ。喜六郎の主張は何時も斯うである。具體性皆無。抽象論ばつかり。それなら――なるほど、「頭が良ささうに見える」訣である。喜六郎は、自分の頭が良いやうに見せかけてゐる――自分の「頭のよさ」を、喜六郎は誇つてゐるのだ。

勝手にすれば良い――が、それなら他人が「自分の意識の高さを誇つてゐる」等と罵らない事だ。