闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「政治主義」と云ふ言葉を利用する喜六郎の政治主義


「政治主義って党派の事でしょ?」と題して喜六郎が書いてゐる。

もはや耳タコなフレーズ「政治主義」。
松原信者にとっては単に自分たちに敵対する人に貼り付けるレッテルなんだろう。
なぜこの人は、「党派」と言つてゐるのに「松原信者」と「敵」の「党派」を罵倒してしまふのだらう。
しかも、「人に貼り付けるレッテル」として「松原信者」が利用してゐる言葉だと云ふのは、明かに喜六郎の偏見である。

喜六郎が「松原信者」と言つてゐるのは、俺、野嵜と、木村氏の二人の事で、要は「野嵜と木村は、自分の敵を罵るのに必ず政治主義者と云ふ言掛りをつけてゐる」と極附けてゐるのである。

しかし、俺にしても木村氏にしても、本當の事・眞實を求める立場の人間であり、學問的な目的を同じうする同志ではあるが、政治的な目的を同じうする同志ではない。
俺にしても木村氏にしても、自分が氣に入らない人間にレツテルを貼つて事足れりとする、喜六郎のやうに淺薄な人間ではない。眞實を目的としない人間に對して・政治目的の爲に物事を歪曲する喜六郎のやうな手合に對して、政治主義者である、と事實を指摘するだけの事だ。
ところが喜六郎には、眞實を追求する、と云ふ觀念がそもそも存在しない。
私は「政治主義」とは「党派」の利益を最優先させる態度の事だと理解している。
成る程、喜六郎の「理解」であるが、それ自體としては文句を言ひやうが無い。けれども、この「理解」は、皮相淺薄のものでしかない。
たとえば昨年の「正論」に掲載された松原正氏のヘッポコ西尾批判を信者達が黙殺したのも、自分たちの党派にとって都合が悪いからだろうし、自分のブログに批判的なコメントを寄せた人を、あたかも私の仲間か工作員であるかのように言い募るのも、自分が党派的な人間だから、他人もそう見えるのだろう。
「だろう」「だろう」と喜六郎は何時ものやうに臆測を言つてゐるが、これこそ自分に都合良く喜六郎が物事を歪曲してゐる政治主義者である事實を示すものである。
實際、松原氏の西尾批判は、些細な部分に誤があつたにしても、本質的に正しいものであつた。正しい事を言つた松原氏を叩かなくて、なぜ惡いのだらう。さらに事實を指摘するならば、そもそも俺は松原氏の西尾批判を默殺してゐない。「默殺した」と喜六郎が言ふのは、喜六郎が嘘を言つてゐるのだ。嘘を言つた方が、「アンチ松原信者」と云ふ「党派」にとつて利益であるからだが、斯う云ふ事實の歪曲をして恥ぢないのが政治主義者・喜六郎である。
野嵜健秀が、同じ党派に属する某経済記者氏の新自由主義的経済論を批判するのも単に「喜六郎が喜ぶから控えろ」、つまりは「自分たちの党派が不利になるからやめろ」と言ってるだけに過ぎない。

私は全然喜んでないんだけどね。
「同じ党派」と喜六郎は言ふが、既に述べた通り、俺と木村さんは、眞實を追求すると云ふ學問的な立場を同じうするが、これは學問を尊重し事實を尊重する人間は全て立場を同じうするのであり、それを「党派」とは言はない。喜六郎は「同じ松原信者だろう」と言ふが、我々は「松原信者」である以前に眞實の徒であるのだから、學説の立場が異つて互ひに否定し合ふ事も當り前だ。
木村さんが「新自由主義」(リバタリアニズム)を主張したのを、俺は誤だと思つたから否定した、それだけの事だ。
それを「自分たちの党派が不利になるから」云々と喜六郎が言ふのは、喜六郎が常に「自分たちの党派」即ち「アンチ松原信者」「アンチ野嵜健秀」の利益になるやう、仲間に媚を賣りながら、事實を歪曲して、惡意で俺や木村氏の言つてゐる事を曲解して見せるのを當然としてゐる政治主義者だからだ。

政治主義者である喜六郎が、俺や木村氏を「政治主義者」呼ばはりするのは、それこそ、さう極附け、レッテルを貼つた方が、喜六郎やその御仲間にとつて「利益がある」からに過ぎない。

然るに、俺が木村氏に忠告したのは、木村氏の「リバタリアニズム」への拘りが、拘りでしかない事を指摘したものだ。即ち、木村氏の「リバタリアニズム」の主張は誤だ。「イズム」の主張なのだから、それは政治的主張であり、政治的主張に拘るのは、事實を歪曲して解釋する誤に陷る事だ。それは政治主義の誤であり、俺は政治主義の誤に木村さんが陷らないやうに忠告したに過ぎない。そこで「喜六郎につけ込まれるから」と言ふのは、今、我々に喜六郎が粘着してゐて、我々が正しい事を言はうとしてゐるのを惡意で解釋してゐる状況があるのに、我々が明かに誤つた事を言へば、喜六郎は普通に誤を指摘してしまふ。さうなれば、我々が負ける事は火を見るよりも明かな事だ――が、その時我々は、眞實の前に敗れるのであり、喜六郎個人に敗れるのではない。そして、眞實でないと解つてゐて誤を言ふのは、本當の意味で學問的に敗北してゐるのである。學問的な立場を抛棄する事である。學問的な立場に留まるならば、飽くまで眞實を追求しなければならない。だから、敢て誤を言はうとする木村さんには、誤に近づく必要はない、異端を攻むるは斯れ害のみと言ふ――さう俺は木村さんに忠告した訣だ。

實際、俺にしても木村氏にしても、そんな黨派が何うのと主張してゐるだらうか。喜六郎は、なぜか俺の言ふ事を常に惡意で曲解して、俺に都合惡く、喜六郎ら「アンチ野嵜」の人間に都合良く言ふが、善意で解釋すれば、俺の言ふ事は一貫してをり、そこに有用性を見出す事は十分可能な筈だ。その有用性を見てほしいと俺は思つてゐるのであり、だからこそ舌足らずな事でも言つてみるのだが、喜六郎は飽くまで惡意にとる。俺の事を嫌ひ、俺を馬鹿にしようとする人は何時も惡意で俺の言葉を歪曲して、俺を馬鹿に仕立て上げ用とする。好い加減にしてほしい。
――斯う要求すると、喜六郎は御得意の「甘えるな」と云ふ精神主義的(これは戰爭中、憲兵や軍人が庶民を見下して罵倒するのに用ゐたイデオロギーだ)な罵倒をして來よう。しかしそれは、これは俺の提示してゐる問題を默殺し、俺個人の資質の問題に轉嫁するための詭辯に過ぎない。
喜六郎は、俺の主張を悉く惡意で歪曲し、俺個人の人間性を執拗に否定し續ける。さうした方が「アンチ」仲間と云ふ「党派」の利益に「なる」と喜六郎が信じてゐるからだが、さう云ふ政治主義者だからこそ、「政治主義」と云ふ用語すらも自分に都合良く利用しようとするのである。斯う云ふ御都合主義は、西尾幹二もさうだ。喜六郎が西尾を讀んで高く評價して見せてゐるのも、結局のところ資質が同じであるからに過ぎない。