闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「ゆとり教育」を禮讚する人々

コメント欄に以下の罵倒が書込まれた。2ちゃんねるからの轉載らしい。
これを喜六郎も採上げて、同調するやうな、距離を置くやうな、曖昧な態度をとつて見せてゐるが、私を罵倒してゐる文章だから喜六郎は大喜びで轉載したのだらう。

野崎お得意のブーメラン炸裂wwwwww

ttp://members.jcom.home.ne.jp/pctips/Tondemo/000nando.html
>腐れHTML文書のくせに、よくもHTML 4.0 Transitionalの宣言など出來たものです。
>DOSTYPE詐稱は、HTML的には「詐欺」と同じです。

DOCTYPEをDOSTYPEとタイポしたのは見逃すにしても、
この文書自体が文書型宣言に違反しているんですね~wwwwww

2009/4/11(土) 午前 0:28 [ a ]

つまり、野崎さんよ、あんたはDOCTYPEを詐称したんだから
自分の言葉通り"詐欺"を働いたんだよなwwwwwww

慌てて改ざん出来ないように、魚拓も取っておいたからありがたく思えw
http://s04.megalodon.jp/2009-0410-1852-09/members.jcom.home.ne.jp/pctips/Tondemo/000nando.html

2009/4/11(土) 午前 0:29 [ a ]

この私を罵倒した人物は、私が愚かであるかのやうに言つてゐる。ところが、よくよく考へてみると、「野嵜は愚かである」とこの人物が主張する時、その背後にある論理は大變奇妙なものなのだ。
この人物は、「野嵜は目標値を高く設定した、ところがその目標値を達成出來なかつた。だから野嵜は愚かである」と言つてゐるのである。
この人物の論理が愚かしい論理である事は、火を見るよりも明かだが、「明かでない」と言ふ人は案外多さうだ。しかし、この論理を以下のやうに言替へてみれば、愚かしいものである事が明かになる。

――即ち、この人物は「目標値を低く設定して、それを達成して見せるのは、頭の良い事である」と言つてゐる。

「目標を引下げて、誰もが達成出來るやうにする」――どこかで見たやうな「論理」だ。改めて大袈裟に言ふまでもない。最近失敗が明かになり、撤廢された、「ゆとり教育」の論理である。

ゆとり教育」の「理念」は、「誰もが確實に達成出來る目標を設定する」事だつた。ところが、目標値を引下げたところ、達成されるレヴェルも低下してしまつた。だから「ゆとり教育を受けた馬鹿」と云ふ事で「ゆとり」と云ふ罵倒の文句が成立した訣だ。

「現實に達成出來なければ理想ではない」=「言行の一致を理想とする」と云ふのが「ゆとり教育」の考へ方であつた。言行一致を「よい」と思ひ込んだからこそ、「言行が一致するやうに」と云ふ發想が生じた訣だ――が、それは無理であつた。
教育においては、目標を高く設定して、それに向つて子供を努力させる。さうする事で、子供を成長させるのである。それを、官僚的に、型にはめて、きつちり目標を實現させようとしたのが「ゆとり教育」だつたが、それは間違ひだつた。
目標を下げれば、達成されるレヴェルが下がる――まあ、當り前の話だ。この事は、理窟ではなく、人間性の事實の問題である。抽象的に論じても仕方がない。
しかし、逆に言ふと、教育的に見れば、達成できない目標を設定して、それを達成できなくても、その人間は決して馬鹿ではない、と云ふ事になる。

斯うして鏤々説明してみれば、誰もが私の言つてゐる事に贊成せざるを得ないと思ふ。ところが、さうすると、私を罵倒したa氏は間違ひを冒した、と云ふ事になる――a氏は納得行かないだらう。a氏にしてみれば、野嵜は飽くまで「愚か」でなければならないのだから。けれども、さう云ふ偏見に凝り固まつた頭で他人を罵倒して見ても、自己滿足の爲に罵倒してゐるとしか、世間は見ない。

言ふまでもなく、教師もまた人間であり、人間である限り完全ではあり得ない。さう云ふ不完全な人間に、完全を求めるのが最近の日本人の間に定着しつつある風潮だが、(恐らく喜六郎氏も反對するであらう)斯う云ふ風潮の定着には俺も反對である。
不完全な人間である教師もまた、誤を冒す可能性がある。さうした誤を、人は安易に罵り、嘲る事が許されるか。許されない筈だ。
逆に言ふと、自分が誤を冒す可能性があるからと言つて、教師が生徒に誤を許してしまつても良いと云ふ事にはならない。教師は、自分を棚に上げて、理想を子供に押附けなければならない。さうする事によつて、子供は成長するからだ。

が、相手は子供に限らない。人間は全て、理想を持ち、その達成が困難であればある程、成長するのである。だからこそ、人は高い理想を持つべきである。この事に、何度も確認するが、喜六郎氏も賛成する筈である。
そして、高い理想を持つ人が現實に達成し得ない場合、その人を嘲る事は、或程度許される。ところが、その人が誤つたとしても、その人の主張する理想が即、誤であつたと云ふ事にはならない。そして、その誤つた人は、訂正が許されなければならない。訂正を禁ずるとしたら、その權利を持つ人間のみであるが、そんな權利を持つ人間はこの世に存在しない。人間を人格的に・道徳的に裁く事が出來る人間は存在しないからだ。
或は、その人の失敗を理由に、その人の理想を嘲るのは・その人が高い理想を懷いた事を嘲るのは、絶對に許されない。特に、そのやうな理想を持たない事によつて、自分が嘲られないやうにして「自分を棚に上げてゐる」人間には。

同じ「自分を棚に上げる」にしても、理想を主張する爲には自分を棚に上げて――自分と云ふ現實の存在を棚に上げて、理想を主張する事が許される。一方、他人の現實の姿を見て、その他人の理想を罵倒する爲に、自分の現實と理想を棚に上げるのは、絶對に許されない。兩者は、根本的に違ふ。

私を罵倒したa氏、或は私に粘着してゐる喜六郎氏は、私が失敗すると、猿のやうに手を叩いて大喜びし、居丈高に私を罵る。が、さう云ふ事をする權利が、喜六郎氏やa氏に「ある」のか。「ある」と言ひたければ、その理由を説明して貰ひたい。勿論、彼らは説明しない。出來ないからである。だから彼らは私の言ふ事を無視する。無視する事によつて勝利しようとする。それが彼らの目的である。

が、さうしたささやかな目前の勝利を求める姑息な行爲こそが、「ゆとり」のする事なのだと言つたら何うか。


ところで、「目標値を下げて、誰もが簡單に目標を達成出來るようにしよう」と云ふ發想は、「ゆとり教育」以前にも存在した。矢張り、これも改めて大袈裟に言ふまでのものでもないが――國語改革である。
自體の簡略化・漢字制限と、假名遣の表音化は、從來の表記を「難し過ぎて達成が困難な目標」と看做し、目標値を引下げて國民全員が容易に達成できるやうにしようとした、或意味「ゆとり教育」を半世紀先に行く試みであつた。その結果は、當然の事ながら、國語能力の低下と云ふ形ではつきり顯れてゐたのだが、國語の教育者(=表音主義者)は目標値の更なる引下げによつて「解決」しようと考へてゐた。それは國語改革に反對する人々の抵抗によつて昭和四十年代にやつと見直しが行はれたが、現在も依然として國語の「ゆとり」化を主張する人は少くない。
少くとも、假名遣の修正には、根強い反對がある――「現代仮名遣」に拘り、正かなづかひに反對する主張である。
彼らは、自分逹が國語の「ゆとり」化を叫んでゐる事實に氣附いてゐない。

だが、福田恆存が指摘したやうに、國語の表音化は、現實に妥協して理想のレヴェルを引下げる・目標値を引下げる事に他ならない。

表音化・簡易化を名目に實施された國語改革は、だから、「言行一致」を容易に達成する爲の國語の「ゆとり」化であつた。そして、今、正かな派に反對し、正かな派を罵倒する人々が、頻りに言ふのが「言行不一致」である。
繰返し言ふやうに、言行の一致は――目標として言はれるならば意味があるが――容易に達成されてゐないからと言つて即座に罵倒の理由として使はれるべきでない。寧ろ、言行の不一致があるからこそ、理想としての高い目標が必要となる、さう理解すべきである。

案外、多くの人が、この事を解つてゐない――否、寧ろ、解り過ぎる程解つてゐると言つた方が良いだらう。
自分が高い目標を設定して、達成し損なふ事によつて恥をかく事を囘避する爲に、多くの人が、自衞の爲に目標を低く設定したり、或は、そもそも目標を設定しない惡智慧を働かせたりしてゐる。喜六郎氏の、自分を棚に上げ、批判を囘避しようとして行なつてゐる自己の隱匿は、大變巧妙なものである。さうした下らないテクニックに走つても、その人が立派か何うかは、話が別である。喜六郎氏は 粘着アンチとして認識され、(御仲間以外のまともな人間からは)決して立派な人間と認識されてゐない。

人が立派であるか否かは、その人が設定した目標をクリアしてゐるか否かで簡單に決められるものではない。寧ろ、高い目標を設定して、達成に失敗する事こそ、必要な事である。失敗は恥であるが、恥をかいた人間は謙虚になる。
一方、自分で目標を引下げ、容易に達成出來るやうにしておきながら、「俺は目標を達成したぜ」等と言つて威張る人間がゐるとしたら、その人は傲慢の罪に陷つてゐる。人が傲慢になつてはならないと云ふ意見には、a氏も喜六郎氏も賛成する事だらう。