闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「無責任禮讚」

喜六郎にしても2ちゃんねらーのアンチ諸氏にしても、「野嵜は自分でも守れない主張をしてゐる」と云ふ非難の仕方を何とも思つてゐないらしい。
「自分で守れる事しか言つてはならない」と云ふ一般的な「道徳」觀念が「ある」と彼等は思つてゐるらしいのだが、私にはそれが全く理解出來ない。

なぜなら、理想と現實は違ふからだ。

――斯う言ふと、三宅氏のやうに、自分は理想を言ふけれども、理想と現實は違ふから、理想と別の事をやつてゐて構はないのだ、と本氣で主張する人が出てくる。それも勘違ひだ。
理想と現實は違ふ、と言ふ時、理想を追求する姿勢を示す事は當り前で――ただ、理想が完全に實現出來ない事は仕方がない・當り前だ、と云ふ程度の意味でしかない。

福田恆存は『私の國語教室』の結論部(第六章)で以下のやうに述べてゐる。
以上のことからも、正しく書かうといふ言語主體の態度が國語問題の重點であつて、客體としての言語の難易は二の次だといふことが解るでせう。
理想に近附かうとする態度が必要なのは言ふまでもない――ところが三宅氏のやうに、そもそも理想に近附かうとすらもしないならば、現實と違ふ理想の存在を認めてゐる事にはならない。

逆に言へば、現實に自分が出來ない事であつても(それは、やらうと努力した擧句、出來ない、と云ふ事だ)、理想として主張する事は、許される――許されるのみならず、それが當り前である、と云ふ事だ。
そこで「出來もしない癖に」等と非難を浴びせるのは――しかし、自分が「出來てゐる」からこそ言へる筈の事だ。けれども、匿名の人間が、「自分はお前ができない事をできているのだ、だからこそ非難しているのだ」等と主張しても、何の根據もないのだから、ナンセンスである。
ニートの無職であつても、匿名ならば誰にも判らない。
私を非難する喜六郎が、元國營企業の社員であるか、ニートであるか、そんな事は判らない(し、判つたからと言つて私がここでそれをばらせば、プライバシーの侵害として喜六郎はYahoo!に通報して、この「ブログ」を閉鎖に追込む事だらう)。そんな喜六郎が、私に對して「無職」だの何だのと非難を浴びせたら、それはをかしな話だ。さすがに其處まで愚かしい眞似は喜六郎にも出來ないらしいが、だからこそ、私が神保町で田村書店の無料箱から本を拾つて來るのを、「道徳的」に非難して見せたりするのだらう。「絶對的にをかしい」と云ふ非難なら可能だ、と云ふ訣だ。が、そんな絶對はあり得ない。
實際、喜六郎だつて、「ブログ」に書かないだけで、どれほどをかしな事をしてゐるか、判つたものではない。勿論「書かないのが當り前」と云ふ話もあるが、田村書店の無料箱から本を拾ふ事を「書かない」のが「當り前」か何うか。少くとも、そんな事で説教を垂れるのは、常軌を逸してゐると言つて良い。
――そもそも、そのやうな形で私の人格を否定して、それで私の主張を「をかしなもの」に見せかけて、私の主張を他人が聞かないやうに仕向けようとしてゐるのがをかしい。喜六郎と云ふ人がをかしいのは、兔に角、私の言つてゐる事を、私が言つてゐるがゆゑに「をかしい」と最初に結論を下して、その結論に持つて行けるやうな事だけを私の發言の中に求めてゐる事にある。喜六郎が「ブログ」で散々私の發言を非難してゐるが、其處で採上げられてゐる私の發言は、私の發言全體の中の極一部に過ぎない。些細な部分を採上げて、全體としての私を「をかしい」かのやうに喜六郎は言つて、非難してゐるに過ぎない。

が、さうした一部の誤・ミスを採上げて大袈裟に言立てる――針小棒大――さう云ふ非難の仕方は、許されない。

人間は些細なミスやら何やらを繰返すし、それを互ひに許さなければやつて行けない。ただ、さうしたミスをしながらでも何か理想を持ち續けるか、何うせミスをするのだからと理想を否定して「現實的」に・享樂的に生きるか、の違ひがある。喜六郎やその他のアンチの人々は、理想を否定して、私を非難して樂しむ氣樂な人生を送らうとしてゐる――にもかかはらず、人がしてゐる事を「氣樂だ」「甘い」等と言つて罵つてゐる。どちらが氣樂だらう。
實際、氣樂に陷つては行けないのであつて、ちやんとしようとする意志は必要だ。が、さう云ふ意志を持つてゐる同士だからこそ、だらしのない生き方になつたら非難する事が出來る筈だ。何ら思想も價値觀も持つてゐないなら、他人の思想や價値觀を非難する事が許されない。もしそんな事をするのなら、それは遊びで石を投げてゐるやうなものだ。相手にとつては危險極まりない。それでは人は理想を言ふ事も出來なくなる。が、人間には理想が必要であり――理想を唱道する人間も必要であるのだ。その爲には、理想を言ふ人間自身の努力とともに、周圍の人間もそれなりに理想と現實との區別をつける習慣を持つ必要がある。

T.S.エリオットの戲曲「カクテル・パーティ」で、ライリーは嚴しい生き方を示して、シーリアをして殉教せしめるのだが、それを「悲慘な死」だと言つて自分逹を責める人々に對して「ライリーはまるでなにごともなかつたかのやうに、冷然と聞き流してゐた」。ライリーは「いとも氣らくに答へる、シーリアの死は犬死ではない、そして自分たちになんの責任もありはしない」。
福田恆存は後に『西歐作家論』として單行本化される一聯の興味深い作家論を書いてゐるが、そこでエリオットを採上げてゐる。閲覽者の方々には是非とも一讀をすすめたい。エリオットは、アメリカ人で、後にイギリスに歸化、カトリックに囘歸した詩人だが、キリスト教の信者だからこそ、人間としての限界を承知し、人間としてとり得る態度を示し得てゐる。エリオットにしてみれば、人間が完全である事はあり得ない話であり(自分が「完全である」と言ふ人がゐたら、それは思ひ上りによる勘違ひにすぎない)、そんな人間にとつて他人の人生を左右する事すらも結局は責任を取り得ないものであるに決つてゐると言ふのだ。喜六郎はライリーの態度を無責任だと思ふだらうし、御芝居の登場人物もさう思はざるを得ないのだが、しかし、それでもエリオットは「無責任の勸め」を主張する。

――無責任に「やつてみる」「生きてみる」以外、人間に出來る事があるのか。

グレアム・グリーンだつたか、「何もしないよりは惡い事をした方が増しだ」と言つてのけた。惡い事を惡い事と「意識してする」のは、道徳的な行爲だ、と言ふのだ。其處では、「惡い事」を「惡い事」として指彈する背後の理想の存在が前提されてゐる。グリーンは飽くまでカトリックの作家であり、無神論を當り前のやうに受容れてゐる日本人ではない。