闇黒日記?

にゃもち大いに語る

派閥爭ひするのが目的のアンチと云ふ存在

正かな派と言つてゐるが、それは事實として正しさを志向してゐる人々を指して言つてゐるに過ぎず、派閥でも何でもない。確かに、學問の世界に學閥は「ある」が、正しさを志向して學問する人々を學者と呼ぶ時、學者である事は派閥でも何でもない。

ところが、さう云ふ態度に異を唱へる人々がゐる。「アンチ」である。彼らは、「正しさ」それ自體は否定しない。ただ、正しさを志向する人々の「態度」を非難する。と言ふより、「正しさを志向する事」を「正しさを振りかざす」惡事だと極附け、自分は「趣味」を「樂しんでゐる」と強調する。
しかし、人間は自分の正しさを主張する動物である。「趣味を樂しんでゐるだけである」と言張つて「アンチ」になつてゐる人々は、實は、自分が信ずる「正しいもの」への愛好を「趣味」と言換へてゐるに過ぎない。そして、「趣味だから、あなたは私に干渉してはならない」と言つて、自分の正しさを防衞しようとしてゐるのである。
これは横着な態度だ。
正しさを主張すれば、反論がある。それに再反論する事が必要となる。「趣味」と言張つて干渉を防ぐ事は、反論を豫め封じ込め、自分が再反論する手間を省かうとするものである。
ところが、「アンチ」は自分が横着してゐるとは自覺出來ない。それどころか、自分はとても素晴らしい事を言ひ、極惡人の「信者」の活動を封じ込めて、社會に貢献してゐる、と思ひ込んでゐる。けれども、發言を封じ込める事は、社會貢獻を封じ込める事であり、惡事である。
しかるに、多くの人が横着を好むから、彼ら横着を主張する人々は人気を得易い。

「アンチ」は、「信者」を「派閥」であると非難し、「派閥」の爲に事實を歪曲する政治主義的態度をとつてゐるものであると極附ける。ところが、彼らは、自分が「信者」とは違ふ事を殊さら強調するのである。これは大變をかしな話だ。「アンチ」は、自分逹を「信者」からひたすら分離しようとしてゐるからだ。しかし、「アンチ」はをかしいと思はない。
「正かな派」にしても「學者」にしても、それは派閥でも何でもない事は既に述べた。ところが、「アンチ」はそこで、殊さら「態度」と云ふ主觀的な價値基準を理由に、「自分はお前らとは違ふんだ」と言張つて、單なるカテゴリの内部で分離しようと圖る――「アンチ」は何とも思はないが、客觀的に見れば、それは派閥を作らうとしてゐる事にほかならない。

http://d.hatena.ne.jp/eulear/
※ 形式のみを顧りみる保守派連中および舊假名遣のダイアリー書きの御仲間として捕捉されることを拒否する。

この人は、自分が「趣味の旧かな派」と云ふ派閥に屬すると強く言張つて、「正かな派」に「分類」される事に反撥してゐる。「アンチ」であり、自分の派閥への拘りを持つてゐるが、ところが、をかしな事に、自分は派閥に屬してをらず、それを他人が無理やり屬せしめようとしてゐる、と言張つてゐる。
「正かな派」が派閥でない事は既に述べた通りであり、また、リンクを張られたからと言つて、事實として「御仲間」に「された」事にはならないのだが、それをこの人はコントロールして、自分に都合の良い結論に持つて行かうと試みてゐる。
私は、リンクを張るのは、何等かの價値判斷に基くものであり、「晒し上げ」とか言はれてゐない限り、惡いものではなく、寧ろ良い事であると考へる。だから、さう云ふ好意的なリンクを拒絶するのは愚かな事で――さう云ふ愚かな事を平氣でやるやうな人の作つたリソースだと判明したら、最早そこを高く評價する必要はなく、よつて即刻リンクを外して、そこを「高く評價しない=低く評價する」と云ふ態度を示した方が良いとすら思ふやうになつてゐる。

何れにせよ、「アンチ」の人々が、自分の態度を省みず、一方的に自分の主張を言ひ續ける自己中心的な人間である事は明かである。彼らは屡々「外在する正義を振りかざす行爲」に對する嫌惡感を表明するが、それは即ち「私の正義は内在する=私は正義である」と云ふ堅い信念を持つてゐる事を意味する。だが、「私は正義である」と云ふ彼ら「アンチ」の態度は、傲慢ではないだらうか。さう云ふ「アンチ」が、常に反論を豫め封じ込め、にもかかはらず自分は一方的に「嫌い」な人間を罵り、呪詛の言葉を投掛け續けてゐるのを見れば、彼らが自己中心的で、傲慢である事は、一目瞭然だ。
彼らは、自分が「嫌い」な「正しさを志向すると言明する人間」を包圍し、集中砲火を浴びせる爲に、派閥を作らうとしてゐる。喜六郎を見ればそれは火を見るよりも明かな事だ。その派閥こそ「アンチ」集團だと言ふ事が出來る。

「自分に内在する正義を振りかざす=自分は正義であると言つて他人を絶對的に斷罪する」行爲を「アンチ」と云ふ名の派閥は繰返してゐる。斷罪する爲に、彼らは事實を歪曲し、惡意で以て「敵」の發言を故意に誤讀する。その結果、世の中に誤と嘘を意圖的にばら撒く事になる。それが「正しさを志向する人間」には許し難い行爲に見える。しかし、それは當り前なのであつて、嘘や佯りを故意に言ふのは惡事である。それに對して「アンチ」も「正しさを志向する人間」の誤を指摘するが、わざと言はうとして言つてゐるのでない誤なのだから、非難する事は不當である。或は、その誤を非難する爲には、「アンチ」自身が繰返し言つてゐる嘘・佯りを、「アンチ」は反省してゐなければならないし、そもそも「アンチ」行爲をやめてゐなければならない――自分自身が正しさを志向して行動してゐなければならない。しかし、「アンチ」には、どうしてもそれが出來ない。何としてでも自分の「アンチ」としての立場=派閥としての立場を守らなければゐられないからである。が、それが政治主義と云ふものである。