闇黒日記?

にゃもち大いに語る

喜六郎は「アンチ」と「信者」の話題が大好きだ

餘りにも豫想の範圍内の非難だつた。


このリンク先の人は、別にヨーロッパ文明を否定してるわけでもなく、単にヨーロッパ側の見方で物を見過ぎていたことを反省したにすぎないのに、「アンチヨーロッパ文明」のレッテルを貼り付ける野嵜がヨーロッパ信者と呼ばれるのは、至極当然である。

「このリンク先の人」にそのやうな公正な態度があると喜六郎が解釋するのは、そのやうに解釋すると野嵜を罵倒するのに都合が良いからだ。
喜六郎は、政治的な判斷で、解釋を自分に都合の良いやうに歪曲してゐる。

しかし「ヨーロッパ信者」と呼ばれる事の何が惡いのかと、私は言つてゐるのだ。「ヨーロッパ側の見方」で「見過ぎる」事の何が惡いのかと、私は言つてゐる。

もちろん、さうした私の指摘を、喜六郎は讀取らうとしない。讀取ると、喜六郎は私を非難する根據を失ふからだ。だから、見ない振りをして、喜六郎はすつとぼけて、私を罵倒するのだが、第三者が見れば喜六郎が偏つた見方をしてゐるのは丸分かりだ。

福田恆存の信奉者には、野嵜のように「近代の宿命」あたりにかぶれて偏狭な西欧絶対主義者になる手合いが少なくない。
この件に限ったことじゃないけど、野嵜健秀は何でもかんでも「信者」と「アンチ」という偏狭な二分法で人間を区分けする単純な政治的思考を改めない限り、決してプロの物書きにはなれないだろうね。

しかし、私は「西欧絶対主義者」ではない。もしさうなら、私はなぜ傳統的な假名遣ひで書いてゐるのだらう。喜六郎の言ふ事に整合性はない。
ただ、餘りにも西歐を輕視する事を當然のやうに思ふ態度に反對してゐるに過ぎない。西歐は日本にとつて大變重大な問題だからだ。

喜六郎は、西歐を輕視して良い理由を説明した方が、説得的で建設的な議論を出來た事だらう。勿論、そんな事より喜六郎は「アンチ」「信者」と云ふ話をしたいのだ。

喜六郎は「アンチヨーロッパ」「ヨーロッパ信者」と云ふ話題に食ひついて來た。喜六郎は「アンチ」「信者」と云ふ話に興味を持つ。それは喜六郎が「アンチ」「信者」と云ふ二分法で考へる事を大變好むからだ。

それから、喜六郎は「野嵜健秀は」「野嵜健秀は」と言續けるのを、好い加減やめないと、誰からも相手にされなくなるよ。喜六郎は、抽象的には何でも理窟を言へるけれども、態度が明かに「アンチ野嵜」だ。そして、重要なのは、抽象的な理窟よりも、「アンチ」として振舞ふ具體的な態度なのだ。