闇黒日記?

にゃもち大いに語る

文章の讀み方

喜六郎をはじめとする「アンチ」の人々は一人の例外もなしに、文章の讀み方を知らない。彼らは、「文章を讀まない」で、文章を書いた「人間を批評する」事を當り前の事だと信じてゐる。

一般に、文章を讀む時、人は書き手に好意的になつて讀むものだし、讀まねばならないものである。なぜなら、さうしなければ、讀み手は書き手の言はんとする事をありのまゝに受取る事が出來ないからである。
ところが、非常識な事に、アンチの人々は、書き手の事が嫌ひだからと言つて、書き手の言はんとするところを讀取らうともしないで、ひたすら自分に都合良く、書き手に都合惡くなるやうに、意地惡く讀まうとする。

けれども、常識的に考へてほしい。どんなに嫌な相手の書いた事でも、出來る限り書き手にとつて都合良く、書き手が言はんとしてゐる事をありのまゝに――それどころか、書き手よりもよりよく讀み手は解釋し、理解しなければならない。そんな事は當り前の話だ。文章を讀む人なら、さう云ふ事は解つてゐるものである。解つてゐないのは、その人が文章を讀む訓練をしてゐないからに過ぎない。
喜六郎のやうに、野嵜の言つてゐる事「だから」間違ひである、よつて、野嵜の言つてゐる事は惡いやうに歪曲して解釋して、野嵜に不都合なやうに讀取つてやるのが、讀み手として正しい態度である、等と信じてゐるのは、文章の讀み方を知らない訣だ。

ところが、「意地の惡い讀み方」をする事を變な風に心得てゐる喜六郎ら「アンチ」と呼ばれる種族の人間は、さう云ふ未熟な讀み方をして平氣でゐる。けれども、より成熟した人間ならば、意地の惡い讀み方をする爲に、より好意的に他人の文章を讀まうとするのである。
書き手の言はんとしてゐる事を、書き手が不完全にしか表現してゐない場合でも、好意的な讀者は適切に足らない部分を補完して、より完全な形で受止め、理解する。それが正しい讀み方だ。もちろん、書き手の不十分な書き方は、書き手の技巧の未熟として、指摘され、非難される事はあり得る。けれども、表現の先の部分は、表現それ自體とは別に、評價されねばならない。
それができないのが「アンチ」と呼ばれる種族の缺點である。が、それを缺點だと「アンチ」の人々は自覺しないし、寧ろ「美點」だ等と勘違ひし、しかも喜六郎のやうに誇る人間すらもゐる。けれども、それは矢張り缺點である。

實際には、さうした好意的な讀み方をして、不足する部分を適切に補つて、それで再構築した書き手の意圖こそが問題であつて――その書き手の意圖そのものに、缺陷がある場合があるのである。
本當に意地の惡い讀み方と言ふのは、より好意的に書き手の意圖に近附き、それを完成させつゝ、しかし、にもかかはらず、そこに出現した、完全に再構築された書き手の意圖そのものに、大きな缺陷がある事を暴き立てる讀み方である。
――と言ふよりも、普通の批評は、それを當り前のやうにやるのである。

「アンチ」のやうに、書き手の意圖を歪曲して、自分逹に都合良く・書き手に都合惡く仕立て上げた・書き手とは何の關係もない、「アンチ」の妄想の「書き手の言ひたい事」を云々するのは、書き手その人の意圖を非難する事にはなり得ず、書き手を非難する事にもなり得ない。「アンチ」の非難の仕方は、林檎を非難する爲に蜜柑を非難するやうなものだ。
「書き手の意圖」以外のものを攻撃する「アンチ」の攻撃は、的外れもいいところなのだが、「アンチ」の人々は、「自分逹アンチの妄想する書き手の意圖」と「本當の書き手の意圖」とを區別しない。もつとも、區別出來ないほど馬鹿であるなら仕方がないが、實は區別出來る筈の腦は持つてゐるのに目を閉ぢてゐて見ようともしないでゐるだけなのである。

要は、そこで「目を閉ぢる」惡癖を身に着けてしまつたのが「アンチ」の悲劇なのだが、ありのまゝに、そしてより好意的に書き手の意圖を汲まんとしない「アンチ」のやり方は、今の日本では餘りにも當り前の態度のやうに思はれてゐる。それは週刊誌やスポーツ新聞の輕薄な人身攻撃で當り前のやうに使はれてゐるからだが――しかしウェブで活動する「アンチ」種族は、さうした「マスコミ」と自分逹とは「違ふ」と云ふ變な自負を持つてゐるものである。喜六郎は明かに自分と「マスコミ」とを區別してをり、自分は「ネット言論」の「側」に立つてゐる積りでゐる。
もつとも、喜六郎自身は、「ネット言論」からも微妙に距離を置く「觀察者」としての態度を崩さず、さうして自己保身をはかつてはゐる。けれども、「觀察者」氣取りでも構はない。
結局のところ、「アンチ」の態度は、喜六郎も含め、「マスコミ」のそれと同じでしかないのだ。「アンチ」にしても「マスコミ」にしても、「誰か」を惡者に仕立て上げ、攻撃する事を「當り前」と思つてゐる。ただ、その爲に、誤つた方法を無知ゆゑにとつてしまつてゐるのが問題である訣である。彼らは何れも、一番樂な方法を撰擇してゐるに過ぎない。けれども、樂な方法は、一見樂であるだけで、實は本質的に何の意味もないものである事が多い。

が、さうした樂な方法を選擇し、氣樂にでつち上げた「惡者」を攻撃する「マスコミ」も「ネット言論」も、或は「アンチ」も、その攻撃目標の人間が「何を言はんとしてゐるか」等、全く氣にしない點で共通してゐる。その人間の言つてゐる事が一見、彼らの目に「どのやうに映つたか」だけを、彼らは氣にする。と言ふより、その人間の印象だけを、彼らは氣にする。嫌な印象を持つたら、彼らは即座に行動を開始する――集中砲火を浴びせるのだ。
その際、尤もらしく見せかける爲に、彼らも自分が合理的な事を言つてゐるかのやうに振舞ふ。喜六郎がその典型で、野嵜の發言を自分の記事の中に轉載する。ところが、そこから先が問題で、喜六郎は常に野嵜の意圖を歪曲して解釋し、でつち上げた僞の「野嵜の意圖」を攻撃して、それで自分は「野嵜を論破した」と宣傳するのである。けれども、野嵜の言つてゐない事を言つたかのやうに見せかけて論破しても、野嵜の言つてゐない事を論破したに過ぎず、野嵜の言つた事を論破した事にはならない。
これが解らないのは、喜六郎が「解釋」や「價値判斷」の仕方を知らないし、それに全く重きを置いてゐないからだ。要は、喜六郎は頭でつかちで知識だけはあるけれども、その知識の使ひ方を知らないのである(もつとも、本當に喜六郎に知識があるか何うかと言へば、それは案外疑はしいのである)。
だが、喜六郎ら「アンチ」は、自分逹の「解釋」や「價値判斷」が正確か何うか、文章の讀み方が良いものか何うかを氣にしない。彼らは、(例へば)野嵜が「何を言つてゐるか」を全く氣にしてゐないのである。彼らはただ、「野嵜と云ふ人間が惡人である」と云ふ誤つた確信を最初に持つてしまひ(それは先入觀であり、偏見である)、「惡人である野嵜」を咎める爲に、批評の振りをして、自分の惡逆非道なやり方を正當化し、體裁を繕つてゐるに過ぎない。が、要は「アンチ」は、「惡い野嵜」に對置して自分逹を「善人」と云ふ事にして、それで威張つてゐるに過ぎない。が、それなら「アンチ」の攻撃は、道徳的な立場からの攻撃である。實際、「アンチ」種族は非難の際に、野嵜が「無職だ」「親不孝だ」等と言ひ、道徳的な非難をしてゐる。
が、さう云ふ事をするのなら、彼らに道徳的非難をする權利がある事を彼等自身が證明しなければならない。喜六郎をはじめとして、「アンチ野嵜」の人間は全員、匿名で、素性の知れない人間である。彼等に他人を道徳的に非難する權利があるか何うかは――少くとも、無職でなく、親不孝でない事實を彼らは示さねばならない訣で、それには彼らが自分の素性を明かにしなければならない義務を負つてゐる事を意味する。けれども、彼らは一人として、自分がどこの誰であるか、そしてどれだけ立派な人間であるかを、自分から明かにした事はない。匿名だから、客觀的に判斷される爲の材料は何一つ提出されてゐない訣で――なのに彼らは依然として威張り續けてゐる。「アンチ」が主觀的な態度で他人に臨んでゐる事は明である。
が、批評は客觀的にやらねばならない。「アンチ」のやうに、主觀的に他人の價値を判斷するのは、魔女裁判と同じである。正當な批評ではない。
そして、「アンチ野嵜」に限らない、「アンチ」種族のする他人に對する人身攻撃は全て異常な行動である。その攻撃に正當性はなく、その主張に信頼性もない。あり得ない。それが解らないから「アンチ」は自己中心的で御都合主義的なのだが、××××に自分の行動の意味が解らないのは、當り前と言へ場當り前の話ではある。が、それが困つた事である事には變りがない。