闇黒日記?

にゃもち大いに語る

Kirokuroの正體

Kirokuroと云ふ人物は、私に數年前から粘着してゐる匿名の人物だが、匿名である事以上に問題なのは、彼が自分の立場を明かにしてゐない事だ。

前田嘉則が、「保守主義に興味があるやうです」とか言つてゐたけれども、Kirokuroは明かに保守主義者ではない――非常に曖昧な態度をとつて來たけれども、何うもあれは左翼であらうと目星がついた。左翼だが――左翼であつても自民黨に所屬する政治家となる事は可能な日本である、Kirokuroはちよつと「まとも」な振りをして、「右でも左でもないやうな印象」を與へて、恰も公正な人間であるかのやうに振舞ひ得た。けれども、前田さんよ、よく考へてごらんなさい、右でも左でもないかのやうに振舞ひながら、保守主義者と見られるのを愼重に拒んでゐた人間が、左翼でない筈がないではないですか。

事實、Kirokuroは政治こそが一番に優先すべき事柄と考へる政治主義者で、所謂「左より」である。それゆゑに、それゆゑにこそ、Kirokuroは熱心に「ネット右翼」を攻撃しようとしたのだ。「松原信者批判」と言つてゐたが、要は松原氏やそのファンを「右翼」と看做して、その影響力がウェブに及び始めたのを見て、Kirokuroは必死になつて破壞活動を始めたのだ。
前田に接近して、野嵜や木村氏らとの間を引裂かうとし――前田が鄙劣な裏切りを働いて、Kirokuroのたくらみは巧く行く事になるのだが、所詮は前田が愚かであつただけの事に過ぎない。私は政治主義者ではないから、「同じ保守主義者」の前田が離反しようが、構ひはしないが、Kirokuroにしてみれば「してやつたり」だつたのだらう。政治的な主張を同じくする者同士が仲間割れして、Kirokuroは嬉しくて嬉しくてたまらなかつた。利用する價値が無くなつて、今やKirokuroは前田を見捨ててしまつた。

Kirokuroのいんちきで愚かなところは――「松原信者」批判と稱しながら野嵜と木村氏だけを狙ひ撃ちした事でも明かだが――「松原信者」が憎いのか、「松原信者」の主張が許せないのか、「松原信者」が崇める「松原正氏當人」が憎いのか、松原氏の主張が許せないのか、その邊が甚だ曖昧なのを見れば明かだ。
既に指摘したけれども、福田恆存の『藝術とはなにか』の中公文庫版が復刊された時、Kirokuroは「歡迎」する振りをしながら「解説が心配」と述べてゐた。「解説」は、松原氏が書いてゐるのである。
――否、そもそもKirokuroは、粘着を始めるのに際して、「松原信者」批判からではなく、松原氏の著書の記述の揚げ足取りから入つたのである。Kirokuroは、その時、「公正な讀者」の風を裝ひ、その裝ひ方を強調する事でごまかしてゐたのだが、實は松原氏當人を既に攻撃目標にしてゐたのだ。ところが、Kirokuroは、飽くまで自分の攻撃目標は「信者」であると言つて、讀者を謀つた。嘘を吐いたのであつた。

もちろん、Kirokuroには、嘘を吐いた積りはない。なぜなら、坊主が憎ければ袈裟まで憎いと云ふのは人情で、松原氏も、氏に關係する全ても、Kirokuroは憎く思つて、それが當然だと信じてゐるからである。
しかし、それは結局、Kirokuroが、讀者のみならず、自分自身をも欺瞞してゐる事を意味する。自己欺瞞が愚かしい事は論ずるまでもない。

「公正な一讀者」を裝ひ、その假面の蔭に隱れて、左翼の活動を開始したKirokuroにとつて、福田恆存と云ふ存在は大變便利な存在であつた。何しろ福田氏は、保守派に屬しながら、保守主義に陷らず、單なる右翼・單なる反動の域を超えた、超黨派的存在であつたからである。斯う云ふ偉い人物は、肖るのなら大變よい對象であるが、しかし、黨派根性を裡に抱へ込みながら、外面は「公正」を裝つてゐる、Kirokuroのやうな鄙劣な人間にとつては、「水戸黄門の印籠」のやうに、敵に突きつけてひれ伏させる爲の、便利な道具になつてしまふ。
AmazonでKirokuroは『私の國語教室』のレビューを書いてゐるが、本の内容についてはおざなりにしか觸れず、福田氏の讀者の中にはたちの惡い輩がゐるとの宣傳を試みた。當然、そんなレビューが信用に足るものとは看做されない訣だが――これはKirokuroが福田氏を利用した事を證明する。左翼のKirokuroは、福田氏の讀者と云ふ憎むべき敵=「ネット右翼」を殲滅しようとして、「ネット右翼」の福田氏の讀者が崇め奉る教祖・福田恆存の威光を利用しようとしたのだ。

福田氏の文章は、大變に立派なものであり、學ぶべきものである。Kirokuroも、口ではさう言ふ。けれども、「學ぶべきである」と云ふのは所詮紋切型であつて、言ふのは簡單、實踐は難しい。Kirokuroは結局、尤もらしい事を言ふだけ言つて、他人に自重を促し、他人を縛らうとするだけである。福田氏の示したより善い生き方を、Kirokuroは全く氣にしない。自分に都合良く世の中が動くやうに、福田氏の名前を利用する。これほど惡質な「讀者」は見た事がない。

もつとも、Kirokuroは、典型的な「論語讀みの論語知らず」で――松原氏を批判した最初の記事で、Kirokuroは松原氏の論語の解釋の誤を指摘してゐるのだ。Kirokuroは、論語を讀んでゐる訣であり、しかも正しい解釋を知つてゐるのである。ところが、Kirokuroの粘着行爲は、Kirokuroが論語の精神を全く身につけてゐない事實を示してゐる。粘着行爲なんて、孔子先生が見たら、何う思ふだらう。Kirokuroを孔子は仁者と判定するだらうか。

要するに、Kirokuroは、知識だけは正確なものを持つてゐるが、その知識を人格陶冶の爲には全く生かさず、人間としてはてんでなつてゐない、と云ふ、典型的な現代の知識人である、と云ふ事だ。さう云ふKirokuroが、私の人格を云々し、私の事を小馬鹿にしてゐるのである。人格的に缺陷のあるKirokuroに、他人の人格を云々する權利が「ある」だらうか。もちろん、ないが、だからこそKirokuroは、自分の正體がばれないやうに、注意深く、身許を匿してゐるのである。