闇黒日記?

にゃもち大いに語る

或心理分析

學校で、苛めをやつてゐる人間と、やられてゐる人間とが、「ゐる」としよう。

苛めがエスカレートし、苛められてゐる人間が絶望して、「死んでやる!」と叫んだとする。これを聞いた苛める側の人間は、何う思ふか。

――「死んでやる!」と言つたな、よく覺えておいてやらう。

苛める側の人間は、苛められる人間を、自分と對等な一人の人間だと思つてゐない。相手を常に見下し、相手を貶める事を、當り前の事だと心から信じてゐる。

これは一種の偏見であり、或は一種の差別であるのだが――人間を人間と見ないのだから――そもそも對當でないと思つてゐるから、苛められる人間を苛める人間は苛める訣である。實に「論理的」だ。

常に「論理的」に、苛める人間は、苛められる人間を、苛める。相手の人格を認めない割に、相手が物を考へる存在である事を、苛める人間は、大變良く承知してゐる。そこで相手が考へて困るやうに、苛める人間は常に「論理」で責立てる。

もちろん、正しい論理の使ひ方を、苛める側は、絶對にしない。言葉の解釋がそもそも公正でなく、相手に都合の惡いやうな價値判斷をするりと滑り込ませるから、苛める側の言ふ「論理」は、苛められる側が常に不利になるやうに「歪曲された事實」を基に、展開される。

「死んでやる!」と云ふ絶望の言葉を、苛める側の人間は、「絶望から出た言葉」だと思はない――と言ふより、苛められる側の人間にとつてはさうであると云ふ事實を大變良く承知した上で、冷酷に無視する。ただ、「約束」と云ふ表現をして、言葉の意義を歪曲するだけである。そして、「生殘つた」相手を見据ゑて、苛める側は冷たく「お前は嘘吐きだな」と極附ける。


――苛められる側を、苛める側が、いいやうに利用しようとする時、常に苛められる側の人間の誠實さを利用する。常に納得づくで、嫌な事をさせるのである。詐欺師が被害者を言ひくるめても、詐欺は詐欺、犯罪は成立する。しかし、學校なり何なりの、警察の手の屆かないところ、司法の目の屆かないところでは、いんちきな論法で相手を言ひくるめてだまくらかしても、それによつて相手が被害を蒙つても、被害を與へる側は、良心を傷めない。と言ふか、詐欺的なやり方で他人を騙す人間は、「騙される人間が惡い」と思つてゐるから、良心の呵責を覺える事は絶對に無い。そもそも、自分は「騙してゐない」のだ、相手は納得して自主的に行動したのだ――詐欺師にしても、苛める人間にしても、常に「責任を持つべきは、相手である、自分ではない」と心から信じてゐる。