闇黒日記?

にゃもち大いに語る

意圖を無視した形式主義では困る

爺氏がまた書き込んでくれてゐるけれども、意圖を無視して、形式的に議論を進めてくれようとするから困る。

ポパーが反證可能性を言つたのも、聖書にはノアの大洪水の記述がある、山から昔の動物の骨が出てきた、これは大洪水で死んだのである、大洪水はあつたのだ、式の「論證」は困る、といふので、さうした論法を排除するために設定した一種の方式に過ぎない。

だから、教會に抵抗して進化論を唱へたダーウィンの所説も、一種のドグマとして排除する必要があるとして、ポパーは否定的な見解を持ち、それで反證可能性のない事を理由として擧げた。説明のための方法として反證可能性といふ事が言はれたわけだ。

階級鬪爭で全てを説明するのも、ドグマに基づいた説明と、その説明に基づいたドグマの正當性の主張であり、その點で論證の方法として排除される。

斯うした意圖からして、ドグマ的な説明こそが問題である、と理解するのが、ポパーの理解としては正しいと言つてよい。

爺氏は、歴史的假名遣ひの規範が制定されてから、その説明のために國文法が作られた、と解釋して、ドグマとしての歴史的假名遣ひを排除しようとしてゐるのだけれども、それは事實の認識として誤つてゐる。先に、ありのままの國語の姿を見て、學者は國語に文法と云ふ規則がある事を認めた。ドグマが先にあつて、そこから説明のための文法が作られたのでない、といふ事は、事實である。ならば、國文法の研究はちやんと科學的な方法がとられたのである。

それに對して、「現代仮名遣い」の場合には、話が異なる。こちらは、假名遣ひといふ規範を先に作つてから、説明のための文法をでつちあげにかかつてゐる。これは許されないだらうと、さう言ふのが私の主張であるわけだが、その主張の核心を見ないで、爺氏は「反證可能性」と云ふ言葉を野嵜が使つた事を問題にしてゐる。