闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「珍語録」とレッテル貼りをして言論封殺を狙ふ粘着一派

ゲストブックで、例によつて私に粘着してゐる人々の一人と思はれる人物が、こんな事を書込んで來た。

爺さんも粘り強くやってますが、このへんで打ち切り、
歴史的仮名遣いは科学的」は「明治憲法は合法」と並ぶ野崎の珍語録としてアーカイブスに保存しておけばいいでしょう。kirokuroさん、あとはよろしく。

2009/8/22(土) 午前 0:54 [ 結局 ]

そちらでも書きましたが、こちらにも書いておきます。

大日本帝國憲法は正しく定められた憲法だが「日本国憲法」は正しく定められたのではない憲法である。
・歴史的假名遣は科學的に定められたものだが「現代仮名遣」は非科學的で政治的に定められただけのものである。

これらは、ちよつとでも考へる能力のある人間ならば、認めざるを得ない事です。ところが、考へる能力のない――政治的主張を鵜呑みにして、自分に都合の良いイデオロギーだけを受容れる人にとつては、何うしても受容れるのが嫌な事實です。

「結局」と名乘つてゐる(タイトルに自分の主義主張を入れるのは2ちゃんねらー特有の行動パターン)この人物は、Kirokuro一派に屬する粘着ですが、要するに左翼であり、「ネット右翼」である野嵜の言ふ事が氣に入らない。だから「ネット右翼」の野嵜を潰しにかかつた。
前からさうです。
福田恆存が言つてゐる通り、大日本帝國憲法は今でも生きてゐますし、歴史的假名遣も生きてゐます。ところが、左翼は、或は、「戦後民主主義」を「保守」したい「保守主義者」は、自分逹が「日本国憲法」を「定めた」から「日本国憲法」が「生きてゐる」と言ひ、自分逹が「現代仮名遣」を「定めた」から「現代仮名遣」が「生きてゐる」と言ふ。
しかし、これらは自分逹で定め得るものではないのです。私逹は歴史的に定められたものに支配されてゐる筈だからです。
それが彼等「自己中心主義者」には解らない。飽くまで「自分」が中心だからです。何とかして自己を主張したいのです。しかし私は、自己を主張しなければならないほど、コンプレックスを持つてはゐません。彼等は飽くまで自己が大事であり――それゆゑに私になんとかしてコンプレックスを持たせようとして、「無職」だの何だのとレッテル貼りをして、人格攻撃を繰返し、人の品格を毀損しようと試みる。けれども、所詮は政治が一番大事な政治主義者の政治的な攻撃に過ぎません。

大日本帝國憲法が先に「あつた」――この事實は餘りにも明かな事であり、それを覆す事は出來ません。その有效性を疑つて見せるのが「戰後民主主義者」の人々の常ですが、その有效である事を信ずるのが日本人の正しい態度です。それは歴史的假名遣も同じ。
傳統を守る事は餘りにも當り前の民族の態度であるとは保田與重郎が述べた事らしいですが、私の言つてゐるのも結局は態度の事です。それをKirokuroにしても、上の「結局」なる人物にしても、解つてゐない。「客觀的に何うであるか」の話として處理をしようとしてゐる――が、それにしては、根據が「現代日本人の主觀」であるのだから、話がをかしいのです。
「現代の日本人が主觀的に正しいと思つてゐるから、日本国憲法は正しく、現代仮名遣いは正しい」――私の論理を否定する人々は、斯う言つてゐるのですが、これこそ「珍論」でせう。ところが、論理で考へず、政治的に主義主張を繰返すだけの人々は、それが解らない。

「結局」なる人物も、私の發言ををかしく表現して、「珍語録に收める」事で、「野嵜はをかしな人間である」と宣傳しようとしてゐます。が、「結局」は私の言つてゐる理窟を論理的に否定しないのであり、Kirokuroにしても私の誤を公正に見て評價した事がありません。ただ政治的な思ひ込みに從つて人の言つてゐる言葉を「珍語録」と看做し、「アーカイブ」に保存して、「野嵜がをかしな事を言つた『と云ふ事』にしてしまふ」だけです。宣傳によつて、野嵜の主張が廣まらないやうにしようとしてしまふ。
けれども、何處ぞの「会長」氏によれば、さうやつてマイナスの宣傳をしても、それによつて私の主張を知る事になる人もゐると云ふ事です。さう云ふ意味では、粘着の活動も世の爲人の爲、或は「野嵜の爲」になつてゐるのかも知れない。粘着行爲の意圖を乘越えて、解る人には解るでせう。理窟が解る人なら、粘着の惡意も判る訣で、さう云ふ惡意にかかはらず、理窟の正當性を理解して呉れると思ひます。

そして、私は、政治的偏見に基いた惡意とか政治的意圖に基いた歪曲・宣傳とかを超越した、客觀的な眞實の存在を主張し、事實を公正に見る態度の重要性を主張する者です。粘着が如何に自分逹の「正しさ」を言つたところで、公正さを缺いてゐる事は否定出來ません。私は、自分が、公正に物を見ようと努力してゐる事は、はつきり言ふ事が出來ます。公正な態度をとつてゐる限り、揚げ足取りレヴェルの攻撃では、私の主張は搖るがないものと思ひます。

少くとも、公正さを缺いた・惡意に基いた嫌がらせを仕掛けて來る粘着の人々が、野嵜の人格を評價しても、それは説得力を持たない事でせう。人の人格を人が云々するのは、そもそも傲慢な事ですが、立派な人格の持主が劣つた人格の持主を批判する事は、成る程、あり得ると言へばあり得るでせう。けれども、粘着行爲をしてゐる時點でまともな人格だと思ふ人はゐません。さう云ふをかしな人々に、私は附き纏はれ、攻撃されてゐるのだと云ふ事――これは大變不幸な事であります。