闇黒日記?

にゃもち大いに語る

意地でも歴史を斷絶させたい人々

Kirokuroにしても「義」(最近「公約」等の名前で人を侮辱する投稿を繰返して呉れてゐる匿名の人物)にしても、大日本帝國憲法や歴史的假名遣を意地でも「根據のないもの」に「しないではゐられない」左翼である。

彼等は、自分逹が使つてゐるからと言つて、「日本国憲法」や「現代仮名遣い」は「そこにある」と、何の根據もなく信じてゐる。そして「自分逹」が、過去と斷絶された現代に生きてゐる事を、誇りに思つてゐる。けれども、それは思ひ上りである。傲慢である。
私は、自分が自分だけで生きてゐる、と思ふのは傲慢だと思ふ者である。だからこそ、自分以上の存在を認めると同時に、自分以前の存在を認める事を、はつきり言ふ。

――もつとも、「認める」と「言ふ」のは、事實を言つてゐるのではなく、「認めるべきである」と云ふ主張であらう、と指摘されるならば、成る程、それは「正しい」指摘である、と認めざるを得ない。
が、Kirokuroや「義」のやうな左翼は、そこを飽くまで「事實」として處理する事で、「野嵜は嘘を言つてゐる愚か者だと云ふ事」にしてしまつて、野嵜を嘲る材料として利用し、執拗に侮辱の言葉を書連ねる。

が、それは、要するに左翼のKirokuro・左翼の「義」が、「ネット右翼の野嵜」を、主觀的に非難してゐるのにほかならない。


私は、明治政府なる權力者が大日本帝國憲法を定めた事實を認める。これを「合法的」な事と言つたのを左翼は嘲つてゐるのだが、しかし、權力者が憲法を定めるのは「惡い事である」とKirokuroや「義」が言ふとしたら、それは彼等が左翼だからに外ならない。
否――しかし、さうはつきり言ふと、彼等こそトンデモだ、と云ふ事が明かになつてしまふから、彼等は自分の意見をはつきり言はない。ひたすら野嵜の事だけを言ふのだが、事實として野嵜の主張を根據ナシに否定する彼等こそがトンデモである。

或は。

・日本國政府が存在する

大日本帝國憲法が發布

・中略

・敗戰

・「日本国憲法」が公布


斯う云ふ一聯の日本國の歴史が「ある」時、「敗戰」なる事實があつても、日本國政府はずつと「ある」訣だから、大日本帝國憲法を無視して「日本国憲法」なるものを作つて日本人に押附ける、なんて眞似は、當然許されない。許されないに決つてゐる。
もしそれが許されるのなら、今、突然、日本政府が、「新しい憲法」を公布して、日本人に押附けるのも、許されてしまふ。

もちろん、左翼のKirokuroや「義」なら、革命で新しい政府を作つて、新しい憲法を作る事は、當り前だらう。けれども、私は、日本には歴史上、少くとも明治この方、革命が行はれた事實がない、と云ふ事を知つてゐる。
明治以來、權力者は變更がない。
ならば、明治政府なる權力者が定めた大日本帝國憲法は、今でも生きてゐる――もちろん、左翼が突込むとしたら、生きてゐると「認めなければならない」と云ふ事を野嵜は言つてゐるのだらうと突込む事しか出來ない。
が、それによつて私の主張が正されるなら、それは左翼の人もその價値觀を認めなければならない。
Kirokuroも「義」も、價値觀として「政府に斷絶がなく、よつて政府の定めた憲法にも斷絶がない」事を認めなければならない理窟である――が、彼等はさう云ふ理窟が解らない。ひたすら彼等は「野嵜の誤」を一方的に言立てつゝ、自分は自分の考へ方に責任を取らうとしない。左翼だから、無責任に他人を非難するだけなのである。

「現代仮名遣」にしても、彼等は「今生きている言葉だから、正しいに決まっている」と信じて、それで歴史的假名遣を否定「したい」から否定してゐるに過ぎない。
爺が「歴史的假名遣は科學的に定められたもの」と云ふ私の説明に「納得しない」からと言つて、Kirokuroは私を嘲つてゐるが、「義」(だか「公約」だか)は私が「間違つてゐる」と言つて嘲つてゐる――これは、「義」だか何だかが「歴史的假名遣は非科學的に定められたもの」と心から信じてゐなければ絶對に行つてはならない攻撃の仕方だが、ところが「義」は、自分は何も考へてゐないのに、ただ野嵜が言つてゐるからと言つて、野嵜を馬鹿にするだけの目的で、無知な爺の無邪氣な攻撃を利用してゐる。
しかし、誰が何う考へても、日本人の國語研究は、近代的な研究なのであつて、學問的な研究であるのであり、山田孝雄は當然のやうに科學だと認めてゐた。科學ならば、反證可能性と云ふ事が言はれてゐる現状、それを必要なものと認めて、受容れる態度が必要である――と言ふより、國語の研究者も科學的な態度を「とるべきだ」と考へるならば、今の時代、反證可能性の存在を念頭に置いて、物を考へ、研究をしなければならない、と、さう私は言つてゐる訣だ。
が、もちろん「しなければならない」とは、態度の問題であり、價値觀の問題で、「我々が取らねばならない態度」を言つてゐる。左翼諸氏は、さう云ふ部分で「事實と價値觀とを野嵜が混同してゐる」と指摘する事だけが許される。けれども、さう云ふ指摘をするならば、彼等は責任をとらねばならない。彼等は、「自分は混同しない」と云ふ事をきちんと辨へてゐなければならないし、その上で、考へて、自分の主張を構築しておかなければならない。
その時、彼等は、假名遣を定める態度がどのやうなものでなければならないか、について、既に態度を決めてゐなければならない訣だが――それが「責任をとる」と云ふ事である。自分の主張を理論的に一貫させておく事、それが自分の發言に責任をとる、と云ふ事だ。Kirokuroや「義」が無責任だと私が言ふ時、それは彼等が場當り的に物を言ひ、一貫しない態度をとつてゐる事實を非難したものである。彼等はさう云ふ無責任な態度を取る事を、匿名の假面の陰に隱れる事で「許される」と思つてゐるが、誰が何う考へても支離滅裂な事を言ふ彼等は許されないだらう。言替へれば、氣樂に與黨を罵倒する野黨の無責任な態度を、彼等もとつてゐる、と云ふ事だ。

「現代仮名遣」が、或部分では表音主義的を根據とし、或部分では歴史的假名遣を根據としてゐる(しかも、その或部分では歴史的假名遣そのまゝであるのと同時に、また別の或部分では書き分けをするのに歴史的假名遣を基準としてゐる)、と云ふやうに、出たら目に原理をセレクトしてゐる事は、火を見るよりも明かな事實だ。
斯う云ふ出たら目なものを爺もKirokuroも「義」も、積極的に「科學的である!」と言張る事は出來ない。が、だからこそ、彼等は「歴史的假名遣も非科學的だ、と云ふ事」にしないではゐられない。悔しいからだ。その悔しさは怨念と化し、歴史的假名遣の正しさを主張する人間に對する激しい侮蔑の念となつて現はれる。
爺は、無知と無邪氣ゆゑの言動だとして、免責されねばならない面は「ある」だらう。調べもしないで只管「野嵜の説明」を要求する邊は異常行動として指彈されねばならないが、批判の仕方を知らない無知ゆゑの行動であり、それに應へられない私にも、成る程「責任」はあらう。
けれども、私は素人であり、專門家ではない。説明できないからと言つて、當然のやうに非難されるべきである、と云ふ事にはならない。
が、さう云ふ素人の私を、素人と知つて、Kirokuroや「義」は、意識的に・殊更に、嘲笑ふ。これは許されない。彼等は、素人の私を嗤ふのに、自分が素人である事を棚に上げてゐるからだ。彼等は「玄人の説」を利用して私を嗤つてみる事もあるが、しかし、その「玄人」も、常に、野嵜のやうな人間と「價値觀が異るがゆゑにをかしな事を言つてしまつてゐる」專門家に過ぎない。Kirokuroらはさう云ふ專門家の事を「專門家である」がゆゑに、無批判に肯定し、禮讚してゐるが――それは彼等が嫌ひな筈の權威主義ではなかつたか。彼等は、權威主義として「福田信者」「松原信者」を罵倒しながら、自分は「專門家の權威」を利用する權威主義者として平氣で振舞ふ。これは無責任な行動だが、彼等は自分達が無責任であつても全く氣にしない。自分が無責任でも構はない――「自分が氣に入らない人間の影響力を削げればそれで十分だ」と彼等は思つてゐるからだ。政治的な行動を取る人間に、極めて屡々見られる、困つた思考法だ。
Kirokuroや「義」らが政治的な行動を取つてゐる事は明である。私が彼等を「左翼だ」と斷定するのは、彼等の政治性が餘りにも露骨だからである。その政治性を隱蔽する爲にも、彼等は自分が「批判」をしてゐるのだと言ひ訣するし、「批判なら野嵜もしているだろう」と話を摩り替へようとするのだが、批判をするなら政治性は拔きに、公正さを意識して、注意した言葉遣ひをしなければならないのだが、その邊の無頓着さが彼等の本性を示してゐる。

なあ、「義」よ、Kirokuroよ、自分の政治的な立場が諸君の言動の根柢に「ある」事實を認めなさいよ。諸君は、自分逹が中立な立場であるかのやうに裝つて、私を「批判」してゐると僞つてゐる。が、それは諸君の政治主義の惡を示す事に外ならない。政治主義を乘越える爲には、自分の政治的立場を意識し、それを示して、その上で、自己の主義・主張を鮮明にしなければならない。政治主義とは、一つの政治的立場を選びとる事ではない。自分が政治的立場に基いて、偏つた態度をとつてゐるにもかかはらず、恰も公正であるかのやうに振舞ふ虚僞を行ふ事である
政治的信條を明かにし、それを意識した上で、客觀的に・冷静に、物を見、判斷すべき事は、言ふまでもない――それが公正な態度である。人間は、誰もが政治的な立場を持つ。その立場を意識しつゝ、「その立場から離れた客觀的な物の見方をする」事を、人間は身に附けなければならない。が、Kirokuroや「義」は、「客觀的な態度」をとつてゐる「振りをする」惡智慧だけを身に附けてゐる。彼等は、政治的な態度を露骨に示してゐる。それは許されない事だ。

大日本帝國憲法にしても、歴史的假名遣ひにしても、我々は客觀的にそれらの存在を認めなければならない。主觀的に「日本国憲法」や「現代仮名遣」を「選び取る」態度をとりつゝ、それらが「自然に存在する」ものであるかのやうに主張する事は、許されない。
歴史的に、大日本帝國憲法も歴史的假名遣も先に存在し、その「先に存在するもの」を否定し、破壊する目的で、「日本国憲法」が定められ、「現代かなづかい」が定められた――その「歴史・傳統を破壞するもの」を、愛好する立場が、左翼である。左翼は、歴史を破壞し、既成の價値を破壞し――「自分逹のもの」である同時代のものを無批判に受容れ、さらに、自分逹で創造した新たな價値を定着させる事だけを望む。
――それが「自己禮讚」の行爲であり、傲慢な行爲である事を、私は非難したい。が、彼等は、自分達が一番偉いのは「當り前である」と心から信じてゐる。Kirokuroらが、私を非難するのは、私が「一番偉いKirokuroら現代人」を非難してゐるからだ。「一番偉い自分逹現代の人間」を「非難する事は許されない」と云ふ、自己中心的な發想を、左翼のKirokuro・左翼の「義」らは持つてゐる。
しかし、自分を離れた價値を認めるべき事を、私は主張したい。彼等も實はそれを否定出來ないから、自分逹が客觀的な事を言つてゐるかのやうに裝ふのだが、しかし「日本国憲法」や「現代かなづかい」の「正しさ」を言ふのに、彼等は何うしても主觀を持出さざるを得ない。論理的に一貫しないのであるが、自分の側の論理的な矛盾を絶對に言はないのが、Kirokuroら政治主義者の常である。身内の誤は絶對に言はないのである。