闇黒日記?

にゃもち大いに語る

ナルシストの粘着・Kirokuroが、偏狹を批判する珍事

粘着のKirokuroが、またトラックバックを打込んで來た。
もちろん、斯う云ふ挑發をすれば私が反論を書く事は目に見えてゐるし、コメントしに行く事も判り切つてゐる筈である。それを敢てまたぞろトラックバックして來た、と云ふ事は、Kirokuroは私に反應して貰ひたい訣である。


野Qのライバル?である七鍵氏がこう述べている。

正しい、正しい、正しいなんて、口でいふだけなら誰でもできることであつて。正しかつたか否かは、行つた結果に對して自身以外の誰かが下す判斷である。結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。なるほど、哲學とは便利な學問だ。

私もこの意見に同意する。
野Q言う「正しい意見」なるものは、単に野Q自身が「正しい」と思いこんでいるだけに過ぎない。

Kirokuroちゃんねるで取り上げてた人がいたが、野Qの本質が垣間見える記述をヤミクロ日記の中に発見したので紹介する。

滑稽に見られようが人から嘲られようが、正しさの必要は語られなければならない。理想とはさう云ふものだ。
理想は、語られなければ、それを尊重する人間がゐなくなつてしまふ。道化にでも何にでもなつて良い。人が大事なのではなく、理想が大事なのだから。そこまでして理想を尊重するならば、理想の爲に人は自らを擲つ事が出來るだらう。
(ヤミクロ日記 平成二十一年九月十八日 より一部抜粋)


人よりも理想が大事。
これは偏狭なイデオロギストの考え方であり、私とは相容れない。
私はやっぱり、人あっての理想だと考える。
野Qは病的な共産主義者市場原理主義者と同類の人間だ。


Kirokuroは、アンチ野嵜だから、野嵜批判をしてゐる人なら誰であれ身方だと思つてしまふ。それで七鍵氏が野嵜批判らしきものをして、それに野嵜が反論を書いてゐたから、飛び附いた訣だ。

>野Q言う「正しい意見」なるものは、単に野Q自身が「正しい」と思いこんでいるだけに過ぎない。

その通り。私は自分の意見を「正しい」と信じてゐるから「正しい」と言つてゐる。それはKirokuroも同じだ。と言ふより、全ての人がさうだ。例外はこの世に存在しない。だから、それをKirokuroが「単に~過ぎない」と言つてゐるのは、「見くびった却下」である。

しかし、見くびった却下は経験から来るものではない。表面上の知識とシニシズムから来るものである。

斯うしたKirokuroのシニシズムは、ただ人をおちよくり、蔑む事にしか、繋がらない。人としてのKirokuroを、尊敬できる人間がゐたら、見てみたいものである。もつとも、レッドクリフなるKirokuroの「同志」の人が、Kirokuroの發言を襃め讚へ、一緒に野嵜を侮辱して愉しんでゐるが。

しかし、「理想よりも人が大事」とするKirokuroは、果して立派な理想を唱へる以前に、立派な人たり得てゐるだらうか。
★粘着を、「立派な人」と思ふまともな人間は、この世に一人もゐない。
當り前の話だ。

Kirokuroは、自分の發言の責任もとらない。これは直前の記事で指摘した。そして、さうした自分に不利になる話は、Kirokuroは全てスルーする。「静観します」とか言つて。

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さて。

人よりも理想が大事。
これは偏狭なイデオロギストの考え方であり、私とは相容れない。
私はやっぱり、人あっての理想だと考える。

私は、このKirokuroの發言は、大變重大な問題を含んでゐるやうに思ふ。なぜなら、Kirokuroは、「人あっての理想」と言つてゐるからである。
★これは、結局Kirokuroが、理想にのみ興味を抱いてゐる事實を示す。

私は、理想の話と人の話とを切離す事を言つてゐる。そして、理想は理想で大事なのだと言つてゐる。それを認めた上で、人は立派に行動できる訣だ。
ところが、Kirokuroは、理想と人とをごつちやにしてゐる。その上で、理想を大事だと言つてゐるのである。

さらに。
野Qは病的な共産主義者市場原理主義者と同類の人間だ。
私はテロリストやエヴァンジェリストやその他の何とかイストの人々を、輕蔑しない。理想の爲に自らの生をも擲つやうな、そんな主義者の人を、私は輕蔑しない――寧ろ逆だ。當り前の話だ。眞劍に理想の實現に動いた人を、輕蔑する事が出來る訣がない。
ところが、さうした主義者を、Kirokuroは――と言ふより、Kirokuroは、自分が粘着してゐる對象、野嵜や木村氏の事を言つてゐるのである。今、「市場原理主義者」なんて事を言出す理由がない。聯想ゲーム的に、「主義者」とついてゐるから、Kirokuroは言出したに過ぎない。けれども、「市場原理主義者」の話は所詮經濟の話だ。「病的な」共産主義者と言ふのは、「健全な」共産主義者もゐると云ふ事だらうが、まあ、その邊の觀念をKirokuroは全部ごつちやにして話してゐるので……要は惡口を言へさへすればKirokuroは幸福なのだ。

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しかし、何れにしても、Kirokuroは、「人間は、正しさを言つても駄目だ。行動で示さなければならない」と言つてゐる訣である。この「示さなければならない」と云ふ言ひ方が、偏狹である、と指摘したら、Kirokuroは何う反應するだらう。
或は、野嵜の考へと「相容れない」考へを持つてゐると云ふだけで、即座に野嵜に粘着し始めた粘着原理主義者のKirokuroが、「偏狹」批判をする事は、可能か。

Kirokuroの「ブログ」のコメント欄にも書いたが、轉載しておく。
投稿者:野嵜
2009/9/20 22:58
>これは偏狭なイデオロギストの考え方であり、私とは相容れない。

相容れないだけならいいが、そこで偏狹さを發揮するのは良くないだらう。

Kirokuroは、既に何年も自分と「相容れない」考へ方をしてゐる野嵜を、潰す目的で、粘着してゐる。

言ふ事は御立派だが、行動が伴はないから、Kirokuroの言ふ事には説得力がない。それは七鍵氏もまた。

Kirokuroの行動は、粘着行動であり、粘着行動はそれ自體として許されない。もし粘着行動を正當化しようとすれば、それは七鍵氏が非難する「哲学」とやらのお世話にならねばならない。ところが、七鍵氏自身も、自己を正當化する爲に矢張り「哲学」を利用してゐるのである。

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もつともらしい事を七鍵氏もKirokuroも言つてゐるが、何れも「言つてゐる」時點で、既に自分の考へを行動で裏切つてゐるのである。「自分のルール」を忘れて、他人を罵るのも、大概にしたらいいと思ふ。なぜこんなに自己中心的な考へ方を出來てしまふのか。私には理解出來ない。
私は、自己を滅する事の重要性を言つてゐる。彼等は、自己を主張する事許りを考へてゐる。だから彼等は何うしても自己中心的な行動を取らざるを得ないのだらう。
しかし、自分、自分と言ふ事――或は自己愛をはつきり表はしてしまふ事は、良くない事である。七鍵氏にもKirokuroにも、ナルシスト的なところがある。

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と言ふか、粘着行爲で他人を潰さうとするのは、テロリストの行爲と同じだらう。安全地帶から石を投げてゐるのだから、Kirokuroは自分の命を賭けるテロリストほどにも立派ではない訣だが。