闇黒日記?

にゃもち大いに語る

七鍵氏は嘘吐きだ

先づ一言言はせて貰ふ。私は自分の利なんかの爲に、七鍵氏を批判してゐない。七鍵氏は人は利の爲に云々と「哲學」を語つてゐるが、事實の前に「哲學」は沈默しなければならない。
金曜日、記事を書いた所爲で私は損害を蒙つた。だから七鍵氏は嘘を吐いてゐる。事實として私は損をした。損をしたのに「利の爲」とは何だ。嘘吐き野郎。

損をしてまでも、言はなければならない事だから、私は七鍵氏批判をしてゐる。七鍵氏には、事實を受容れるまともな腦髓が無いのか。さうだらう。そして、さう云ふ「腦なし」でも、正かなで文章を綴る事は出來るのだ。正かなが難しい式の論理は最早成立たない。閑話休題

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連日私は七鍵氏にトラックバックを送つてゐるのだが、七鍵氏はガン無視を決め込んでゐる。無視は結構だが、無視した結果として、私の存在は「ない」ものとされてゐる。
七鍵氏は皐氏が「たつた一人」で七鍵氏を批判してゐるものと稱してゐる。もちろん、嘘だ。

しかし、"七鍵さんたつた一人の判斷ではない"などとよく言へたもので、たつた一人、自身の判斷で七鍵を貶めようと躍起になつてゐる輩がいふのだから、目も當てられない。この人、自分が何を言つてゐるのか解つてゐるのだらうか。これだから讀解力がない輩は相手にしたくないのだ――自身の言葉すらまともに理解できないのだから。他人の態度を罵る前に、自身の態度を反省してみては如何か、そちらの方がよつぽど自身のためになる。


讀解力は關係ない。事實として二人の人間が七鍵氏を批判してゐるのだ。それなのに七鍵氏は「讀解力」と言ひ、剩へ「たつた一人」と嘘を言ふ。
嘘だと云ふ事は、七鍵氏自身、良く承知してゐる筈の事だ。何しろ、トラックバックが、皐氏のみならず、私からも――そして、それ以外にももう一人の人からも、七鍵氏のところには送られてゐるのだ。理窟だけなら何とでも言へる。しかし七鍵氏の理窟=「哲學」を、事實が裏切つてゐるのだ。

何うして斯うまで七鍵氏は獨善を貫かうとするのだらうか。そこまで七鍵氏は「守らなければならない」何かを持つてゐるのだらうか。それが正義でない事は明かで、なぜならそれは七鍵氏自身が斷然主張してゐる事だからだ。
ならば七鍵氏は、自分自身・自分のプライド或はその類のものを守りたいのだ、と云ふ事になる。が、それは良い事なのか。

自分自身に何でそんなに七鍵氏は固執するのだらう。呆れたものだと思ふ。そして、自分自身に固執するからこそ、他者からの批判を七鍵氏は拒絶せずにはをれないのだ。自分自身を守ると云ふ獨善の爲に、七鍵氏は世間一般の議論と云ふ事を全て否定し、人間社會の常識を否定してしまつてゐる。自分一人を良い子にする爲に、世の中の正義一般を否定する――獨善も極まれり。

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その證據となるか否か、こゝの讀者には女性もたくさんゐて、その女性からは一言も「不快」だなどと言はれてゐない、むしろ女性の方が私の言ひたいことを的確に捉へてくれた、まあどうでも良い傾向の話。
また自分に都合良く、檢證不可能な事を言つてゐる。「が、この自身の利ばかり貪る七鍵氏は、あたかも自身の價値観を皐氏以外が皆感じる價値観のやうに喧傳し、あたかも自身が虐げられてゐる者の味方のやうなふりをして、自身を正義漢だと見做して悦に入つてゐる。」
はつきり言ふ、「世間の人は皆、私の身方である」式の論法を使ふ人間は、嘘吐きである。Yahoo!掲示板でもその手の嘘吐きが跳梁跋扈し――私を誹謗中傷して掲示板から追出さうとした。私は、嘘吐きの人間が、敵對する人間を陷れる爲に、鄙劣な行爲に即座に走る事をよく知つてゐる。七鍵氏も、自分を批判する人間をウェブから追出し、自分に都合の良いやう「世論」を操作しようと劃策してゐる。
さう言つた人間の最大の特徴は、議論を拒む、と云ふ事だ。議論を拒否しながら、自分に都合の良いやうに世の中が動いて行くやう、工作・裏工作を繰返す。
★鄙劣な精神の持主だからこそ、公明正大に議論をして物事の白黒をつけようとしたがらないのだ。
七鍵氏は、自分に理がない事を承知してゐる。けれども、自分に利が生ずるやうに、他人の「哲學」を封じつゝ、自分は「哲學」を語る。そして、獨善・自己中心主義を肯定する事で、自己の「論理」が何處までも不公正で卑劣であつても「正當」の行爲と言張る。

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本當に何うしやうもない人間と云ふのはウェブにはごろごろ轉がつてゐるのであつて、それはK氏、惡性氏、或はF氏のやうな獨善的な人間であるのだが、彼らは全員、議論をせず、人の人格を毀損して――「こんな人間の屑、相手にするまでもない」式の「論法」を使つて議論を拒絶する事を正當化してゐた。
彼等の目的は、或は、彼等の興味は、議論をして何かを明かにする事にはない。彼らは、他人の人格を云々するのが好きで好きでたまらないのだ。そして、氣に入らないと思つた人間がゐれば、その人間の人格を貶め、徹底的にやつつけて、快を貪る。或は、人間を人間扱ひしなくなる。
他人の人格を毀損して喜ぶのは絶對に許されない事で、だからこそ私は相手の人格を尊重する爲に、人格とは無關係の論理とか理念とかの檢討としての議論を主張する。だが、さう云ふ私の人格を貶めないではゐられない、と云ふ人が「ゐる」のである。さう云ふ人間に既に私は何年も粘着され、嫌がらせをされ續けてゐる。彼は私の人格を認めず、人間の屑、人間未滿の存在と看做して、徒黨を組んで人を貶める活動を續けてゐる。

七鍵氏も、さう云ふ「他人の人格を貶めて快を貪りたい」惡質な人種の一人だ。
今までの全ての七鍵氏の記事が、他人の人格を認めない七鍵氏の冷酷非情さを示してゐる。私は七鍵氏の記事に、獨善とナルシシズムの臭ひをしか嗅いだ事がない。
今も、七鍵氏は皐氏を人間扱ひせず、侮辱の限りを盡してゐる。私が七鍵氏批判を續けてゐるのは、皐氏を七鍵氏が侮辱してゐるからで、皐氏を辯護するのが目的である。七鍵氏は、皐氏を貶め、人格的に否定してゐるが、さうする事で七鍵氏自身の「人格を守つてゐる」積りでゐる。が、人格攻撃を仕掛けてゐる時點で、七鍵氏自身の人格は既に「ろくでもない」ものと看做される。七鍵氏にはそれが解らない。

他人に「道徳的な説教」を繰返してゐるが、そんな資格が自分自身にあるのかと七鍵氏は自問し、反省する事が無い。これが本當にをかしな事に私には思はれる。もし「自分も同じ人間であり、他人に道徳的な説教をする資格はないのではないか」と、一瞬でも思はれたのなら、その時點で攻撃を止めなければ、人間としてをかしいと思ふ。
私は、道徳的な説教をする資格など無い事を自覺してゐる――だからやらない。七鍵氏のしてゐるのは、「權威者から一方的に凡人に押附ける道徳的説教」だ。私はさう云ふものはしないやうに努めたいと思つてゐる。自分で自分をオーソリティであると言ふのは、明かに傲慢な事だ。七鍵氏はさうした傲慢な事を平氣でやつてゐる。

もちろん、人間は誰しも傲慢の罪に陷り勝ちだ。が、だからそれを「肯定する」と言ふのでなく、寧ろそれを「否定する」やう努めなければならない。
七鍵氏は、人間は誰しも「自分本位」に陷り勝ちだ、と事實を認めてゐる――が、そこから「自分本位」に陷つてはならない、と云ふ方向へは絶對に進まない。ひたすら「自分本位」を肯定しつゝ、ただ互ひの「自分本位」が衝突しないやうにしたいと願ふ。
其處には價値觀も何も無い。ただただ欲望を正當化する論理があるだけだ。七鍵氏は、自分に價値觀があるかのやうに言つてゐる。
が、この自身の利ばかり貪る輩は、あたかも自身の價値観を七鍵以外が皆感じる價値観のやうに喧傳し、あたかも自身が虐げられてゐる者の味方のやうなふりをして、自身を正義漢だと見做して悦に入つてゐる。
――いやいや、七鍵氏は、巧妙に、自分が「價値觀と無縁である」かのやうに、表現を工夫してゐる。口先だけは巧いと言はざるを得ない。が、斯う云ふ惡い意味での「口説の徒」は、本當に困るのだ。