闇黒日記?

にゃもち大いに語る

七鍵氏にお灸を据ゑてやる(わらひ)

七鍵氏は、自分が「不愉快に思つた」と返すのを「當り前」だと思つてゐる。これがをかしい。なぜなら、批判は常に不愉快なものであり、しかし不愉快と言ふだけで否定する事は許されないからだ。

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七鍵氏は、こんな事を平然と曰ふのである。
上記のやうに、他人の事情や都合も考へる自分を想像して悦に入つてゐるSuckyさん。さぞご立派な方なのだらう――嫌味――と考へ、私は次のやうに返した。
他人の事情や都合を考へるのは當り前の事だ。何を七鍵氏は怒つてゐるのだらう。

七鍵氏に尋ねたいが、他人の事情や都合を考へないのは良い事だと、七鍵氏は本氣で主張したいのか。「當り前だ。他人の都合なんか知つた事ではない。私・七鍵だけに都合が良ければそれで良いのだ」――七鍵氏がもしこんな事を言ふとしたら、七鍵氏は正氣ではない。

ところが七鍵氏は平然と續けるのである。
まあ正直不愉快だつたし、「羨ましい」だとか「樂だらうなと思ふ」とか意味の判らないことばかり言つてくる相手だつたから、心からのお願ひではあつたのだが、それに對し、他人の事情と都合を考へる人間を自称するSuckyさん、こともあらうに以下のやうな返答をしてくる。
「不愉快」「不愉快」「不愉快」! 七鍵氏は、道徳的判斷は一切不要であると主張する。ただただ「快」か「不快」かだけで物事を判斷して良いと主張する。

「不愉快」原理主義!

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「他人が嫌がることをする七鍵は氣にくはないが、俺のやつてゐることは七鍵が嫌がらうが問題ない」との、開いた口を更にこぢ開けられるやうな主張をするSuckyさん。

「他人が嫌がることをする七鍵は氣にくはないが、俺のやつてゐることは、他人が嫌がることをする七鍵が嫌がらうが問題ない」――「他人が嫌がる事をするのを良しとする七鍵氏」なのだから、「他人から嫌な事をされても良しとしなければならない」のは自明だ。
七鍵氏は、自分が「嫌な事をされる」のを「惡し」とする論理構成を示す。斯う云ふ論理構成をKirokuroもするが、こんな論理はある訣がない。「七鍵氏は、他人が嫌がる事をするのを良しとする」のであり、さう云ふ七鍵氏は、他人から自分が嫌がる事をされるのも良しとしなければならない。七鍵氏の立場こそが重要なのだ。七鍵氏は、自分が批判されてゐる事實を、認めなければならない。
そして、批判者・皐氏は、批判する時に、七鍵氏の立場に「立つて見せてゐる」のである。それは、七鍵氏の主張を皐氏が七鍵氏自身に對して實踐して見せて、七鍵氏に自分の論理が跳ね返つて來た時の事を思ひ知らせようとしてゐるのである。
その種の批判を否定する人は非常に多いが、批判なのだから、それが批判者自身の主張と反した行爲であつても、正しいやり方である事は言ふまでもない。

七鍵氏自身も嫌みを言つてゐるが、皐氏も嫌みを言つて惡いわけはあるまい。それと同じ事だ。「嫌みを言はれて悔しいなら、嫌みを言ふな」式の非難を七鍵氏はしてゐるのだが、「嫌みを言つてゐる人間が、他人に嫌みを言はれて怒るな」と云ふ論理の方が、ずつとまともだ。七鍵氏と言ひKirokuroと言ひ、まともな論理を受附けられないのだが、私にはさう云ふ人間の精神の圖太さは見習ひたいと思ふ。

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七鍵氏の讀解力のなさも一往指摘しておかう。

皐氏の發言。
私の相手をすることに厭きたやう。では最後に七鍵さんに忠告して終りにしよう。
http://d.hatena.ne.jp/Sucky/20090930/1254319353

これを、七鍵氏は「傲慢不遜な、讀解力がない自分の讀者に對してだけにまかり通る勝利宣言」だと解釋するのである。
皐氏は、別に勝利を宣言などしてゐない――そもそも皐氏は勝敗には觸れてをらず、ただ七鍵氏が「厭きた」やうだと客觀的に述べてゐるに留まる。だが、七鍵氏は、なぜか皐氏の文章を「勝ち負け」の話だと「讀解」してしまふ。

しかし。
私には私の事情がありわざと説明をしてゐなかつたのだが、こともあらうに、他人の事情や都合を考へられる人間だと自身を言ひふらして悦に入つてゐるSuckyさん、七鍵の事情など一切おかまひなしに自分勝手な主張を七鍵に對して繰り返す。
理由はどうあれ「説明をしてゐなかつた」のは七鍵氏が惡い。説明してゐないのに「わかれ」とは、目茶だ。ここまで自分に都合の良い「讀解力」を讀者に要求する書き手は見た事がない――と言へば、例によつて言過ぎで、結構この手の書き手は良くゐる。が、書いてゐない事を讀みとれとは、無茶だと云ふ事は、どんな人間にも解る事だ。
七鍵氏は皐氏が「エスパーでない」と怒つてゐるのだ。皐氏にしてみれば七鍵氏の怒りは理不盡なものでしかない。

私は早々に、「まあしかし、話をおもしろおかしくしようと仔細を後囘しに書いたのが拙かつたのかと、多少反省の餘地がないでもない。」と自身にも非があつたことを認めてゐるのである――「羨ましい」だとか「樂だらうなと思ふ」とAでもBでもCでも取れるやうな文章を書くSuckyさんに對し多少言葉に含みを持たせてはゐるが。何もSuckyさんがいふやうに誤魔化さうとも何ともしてゐない、説明済みのことだからあへて繰り返さなかつたのである。
「おもしろおかしくしようと」した、と云ふ七鍵氏の「説明」を、皐氏は理解出來なかつた。それはさうだらう。そんなのは説明でも何でもないからだ。だから依然として七鍵氏は何も「説明してゐない」のだ。ところが七鍵氏は、手前勝手な「説明」を、さも御立派な、わらひ、説明であるかのやうに思ひ込んで、それを受容れない皐氏を「惡人」だと言ふのである。身勝手にも程がある。

それにしても、自分を批判した人間を、てんで勘違ひした理由で怒つて、七鍵氏は相手を「猿」呼ばはりするのである。
私には、人間を「猿」呼ばはりする七鍵氏のやうな人間に、他人に偉さうに説教をかます資格があるとは、到底思へない。どんなに怒つてゐても、相手の人格を否定するやうな惡口は、言つてはならないものだ。七鍵氏も、Kirokuroらと一緒で、自分の敵は「人間未滿」と看做し、人格攻撃を平然とやらかす、大變に困つた人種の一人である。


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ちなみに本記事のタイトルはKirokuroの言葉の捩り。面白いので流行らせてみたい。