闇黒日記?

にゃもち大いに語る

人は自分の論理に制約される――論理の自律性を認めよ

「他人を馬鹿呼ばはりする七鍵氏の論理が、他人を馬鹿呼ばはりする七鍵氏自身を縛つてゐる」事實を指摘するのは、惡い事だらうか。異常な事だらうか。
「私・野嵜」や「皐氏」が「自分の信じてゐない價値」を根據に「七鍵氏を責めてゐる」と七鍵氏は主張するのだが、「七鍵氏の信じてゐる價値それ自體が、七鍵氏を責めるのだ」と我々は指摘してゐるに過ぎない。

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七鍵氏は「私は、人に對して『嫌がるやうな事をするな』と主張してゐる。けれども、『人は他人に對して嫌な事をしても良い』と主張する人が、私を非難して、私が『他人が嫌がるやうな事』をしてゐると責める。頭がをかしい」と述べる。

Kirokuro氏は「論理が重要だと主張する野嵜が、他人の人格を云々してゐる。異常である」と主張する。

何れも、根本的な勘違ひを冒してゐる。

★論理は普遍性を持つものであると同時に、自律性を持つものである。

「七鍵氏の論理を、私が行使する」なんて事はあり得ない。七鍵氏の論理は、それ自體として力を持つ。そして、その力は、その論理を信ずる七鍵氏自身を縛る力である。
七鍵氏は「他人に對して嫌な事をするな」と言つてゐるが、それは七鍵氏が信ずる論理である爲、それ自體として七鍵氏に對する制約として機能する。
「他人が結果として嫌だと感じても、批判ならばしやうがない」と考へる批判者が七鍵氏に「あなたも他人が嫌がる事を言つてゐるでせう」と指摘するのは、「七鍵氏を縛る論理」として「他人が嫌がる事をしない」と云ふものが「ある」と指摘してゐるだけであり、即ち七鍵氏の自家撞着を指摘してゐるのであつて、「自分が信じてゐない價値を以て相手を責める」事をしてゐるのではない。「七鍵氏が信じてゐる價値が七鍵氏を縛つてゐる事實」を指摘してゐるのだ。

Kirokuro氏の場合、「私が初めに誰かさんXを責めてゐる」のだと言つてゐるのだが、事實は、「X氏が他人を責めてゐる」のである。そのX氏が他人を責める論理がX氏自身の行動と矛盾してゐる事實を私は指摘するだけであるのだが、Kirokuro氏は常にさう云ふ文脈を無視して判斷する。
或は。
Kirokuro氏は、「人は一般に、實績を基準に人格の良し惡しを判定されるべきである」と主張してゐる(それで、野嵜は實績がないから他人を批判する資格が無いと斷定する)。だが、その論理で他人を責めるならば、Kirokuro氏は、自分が何物でどんな實績があるかを明かにし、自分が他人の人格を判定する資格がある事實を示す必要があるのだ――それはKirokuro氏自身の論理がKirokuro氏に命ずる事である。

私は、自分の論理を自分自身に適用する事を忘れてゐる人に、「適用するのを忘れてゐますよ」と指摘する。私が、その論理を信じて、その人に適用しようとしてゐるのではない。
それが、七鍵氏にも、Kirokuro氏にも、わからない。自分の論理は自分自身を縛るのだ。他人が何う斯うしようと云ふものではない。

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斯うした勘違ひをする人だから、Kirokuro氏なんかは、Kirokuro氏が信ずる「人は言行が一致しなければならない」説を、一方的に野嵜に適用する。が、私は「言行一致」を主張してゐない。だから私が「言行一致でない」としても、それを非難するKirokuro氏は、ただKirokuro氏の價値觀を押附けてゐるに過ぎない。私の内部で自家撞着は存在しない。矛盾はない。
もちろん、「言行は一致しなければならない」と云ふKirokuro氏の信念を、説明し、それを一般の人に説得して、納得せしめるのが狙ひならば、Kirokuro氏は「自分の信念に反した行動を取つてゐる、許せない」と私を非難すれば良い。だが、「野嵜は言行が不一致である。矛盾である」と稱するのは、Kirokuro氏の勘違ひした批判であり、無意味極まる。

七鍵氏にしてもKirokuro氏にしても、「人は人格が重要なのである」と主張してゐる。その理論ならば、七鍵氏も、Kirokuro氏も、自分の人格が立派である事を先づ示す必要がある訣だが、御兩人とも解らない。「人は自分の信ずる價値觀を一方的に他人に押附けるものである」と二人とも心から信じ切つてゐる。「論理はそれ自體として強制力を持つ」と云ふ事實を、二人とも認めない。
しかし、誰が何う考へても、論理には自律性がある。それを認めないから、七鍵氏もKirokuro氏も、話が目茶目茶になるし、また、「自分だけは免責される」と云ふ獨善主義に陷つてしまふ。自分の外部に權威を認めないのだから必然である。
自分の外部の權威として、自律的な論理の存在を認める事は、傲慢の罪に陷らない爲の一つの手段であると私は信ずる。