闇黒日記?

にゃもち大いに語る

自分の立場を弁へよと云ふ事

実績主義者なら先づ自分が実績を出してから物を言へ。
結果主義者なら先づ自分が結果を出してから物を言へ。
人格主義者なら先づ自分が人格者でなければならない。
言行一致主義者なら先づ自分が言行を一致させてから物を言へ。

——単純な理屈だが、七鍵氏もKirokuro氏も解らない。ひたすら自分を棚に上げて他人を罵る。

二人の思想は単純で、自分は他人に一方的に自分の主義・主張・価値観を押し付けていい、と云ふものだ。

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何も私は、二人の人格を否定・毀損しようと思つてゐない。ただ、「論理を動機で説明する主義」が誤である事を指摘してゐるだけだ。

全ての主張は論理である。他人の人格を云々する主張も、全て論理である。だから、その論理は當然の如く、論者自身にも適用される。或價値觀に基いて、論理的に結論が引出される。その價値觀の正邪は兔も角、その價値觀を認める限り、その論理はその人にとつて眞實である。だから、私は「自分の事を棚に上げるな」と言へるわけだ。私が要求するのではなく、論理が要求してゐる事實があるからだ。それを私は指摘し、相手に自分の論理を想起させようとする。動機なり何なりの主觀主義で否定しようとして、出來たものではない。

が、論理を動機で説明する時、それは解釋である。解釋であるとは、一つの解釋であると云ふ事で、他の解釋も許されねばならない。ところが、或解釋だけが正しいと何の根據も無く主張する時、その主張によつて示される「論理と動機との關係」は、必然的でも何でもない、ただの極附け・レッテル貼りである事になる。

Kirokuro氏やその他の或種の人々は、他人の人格を問題にし、發言する資格として「立派な人間である事」を第一の要件とする。そして、他人に對してその價値觀を適用して「お前は立派な人間でないから、發言する資格がない」と結論を下す。
これは、Kirokuro氏らが、自分逹の信ずる或價値を基に、それを具體的な他者の個人に適用して、論理的に結論を下してゐる、と云ふ事だ。だが、それが論理であるならば、その論理は、その價値を信じてゐる當人に自分で適用しなければならないのであつて、Kirokuro氏は、自分の信ずる價値を基に、自分自身に論理を適用して、結論を下せなければならない。が、それをKirokuro氏は絶對にやらない。と言ふより、やれない。
だからKirokuro氏やその他の或種の人々の主張する價値は「正しくない」と斷定できるわけだが、それがKirokuro氏らには解らない。全く關係ない價値觀を持出して説明を附けて、正當化するのは良い事だと彼等が信じてゐるからだ。
具體的に言へば、彼等は「無職には物を言ふ資格がない」と云ふ價値觀を持つてゐる。「野嵜は無職である」「野嵜には物を言ふ資格がない」――それが彼等の論理であるわけだ。が、この論理は當然の如く、その價値觀を信じてゐる彼等が彼等自身に、既に適用してゐなければならない。即ち、彼等には「物を言ふ資格がある」わけだから、その事を彼等自身が豫め證明してゐなければならない。もちろん、證明には自分が具體的に何と言ふ會社の何と言ふ地位についてゐるかを開示しなければならないわけだが、彼等は「それを言はせる野嵜はプライヴァシーを侵害しようとしてゐるのだ」と主張する。が、プライヴァシーの侵害を要求してゐるのは、彼等自身の論理なのだ。それを彼等は自分で否定してゐるのだから、自分で自分の論理を否定してゐるに等しいのだが、それを認めるのが嫌だから、彼等は「プライヴァシーの侵害」と云ふ「いかにも惡さうな事」を「野嵜が主張してゐる事」にして、騷ぐ事によつて、自分の誤を隱蔽しようとする。が、論理的な自己矛盾は、致命的である。それは彼等も大變良く承知してゐて、Kirokuro氏が「野嵜は矛盾してゐる」と盛に宣傳してゐるのを見ればそのためである。が、既にKirokuro氏ら自身が矛盾に陷つてゐるのであつて、「それを認めない」で只管「野嵜を攻撃する」事で彼等は自分逹の誤を隱蔽しようとしてゐるに過ぎない。もちろん、隱蔽したところで、論理は明かだから、何の效果も無い。

七鍵氏の場合にしても似たやうなもので、こちらも他人の動機を極附ける論理を用ゐてゐるのだから、七鍵氏自身の動機も七鍵氏自身が證明する義務があると云ふ訣だ。他人が何う斯う言つてゐると言ふのではなく、七鍵氏自身の問題である事を私は指摘してゐるだけなのだ。それを七鍵氏は、「野嵜らは、自分逹の信じる價値として七鍵氏に押附けをはかつてゐるが、その價値を信じてゐないのだから矛盾である」と言つて、否定してゐる。けれども、「野嵜等が信じてゐない價値」を「押附ける」のではなく、「七鍵氏が信じてゐる價値」を「七鍵氏自身が自分に適用する」事を要求してゐるのだ。これが七鍵氏にはわからない。七鍵氏の頭の中には「全ての主張は自分の信ずる價値の押附けである筈であり、さうでなければならない」と云ふ發想しかないからだ。

が、「價値の押附け」を、私はしてゐない。ただ、價値の具體的な適用について、それが論理であるがゆゑに、論理的な一貫性を論者に要求してゐるに過ぎない。その價値が主觀に關るものである爲に、主觀主義の七鍵氏にとつては解釋での對抗が「可能だ」と思はれるのだが、價値の部分ではなく論理の部分を問題にしてゐるのであり、論理は客觀的なものだから解釋の餘地はない。
★そして、その論理の適用に無理がある場合、價値それ自體がその場においては無理がある、と云ふ結論が、論理的に引出せる。それを私は指摘してゐる。

が、その價値が、論者の人格と直結してゐる七鍵氏やKirokuro氏の場合、七鍵氏の人格・Kirokuro氏の人格が問題になるのだが、それは、野嵜が問題にしてゐるのでなく、七鍵氏自身・Kirokuro氏自身が問題にすべき筈の事であるのだ。それを問題にしないのは、七鍵氏・Kirokuro氏が自分だけを特權階級扱ひして=自分だけを偉い存在にして、適用を除外してゐるだけだと解釋される事になる。
そして、人格主義と同時に動機主義であるが故に、その動機もまた穿鑿されるのであり、怠慢か、故意か、のどちらかである筈だと考へられるが故に、必然的に或種の結論(「單なるバカ」か「獨善・傲慢」か)に至つてしまふ、と云ふ訣だ。
それは、七鍵氏やKirokuro氏の價値から論理的に引出される結論であり、野嵜が自分の價値觀を適用して勝手に判定を下してゐるものではない。私はただ、理詰めで話をしてゐるだけであり――もちろん、そこで私の動機を云々する事も出來るのだが、しかし私の動機が何であれ、理詰めの話なら、理の部分に問題がなければ、どんな馬鹿や惡人が言つても、何時でも正しい話である。