闇黒日記?

にゃもち大いに語る

説明するのは「負け犬のする事」?

メモ8氏の「誤読だ」と云ふ言掛りにまつはる論爭(何うせ「野嵜の誤読騷動」とか言つてKirokuroなんかが宣傳する事だらう)で、私は説明をした。懇切叮嚀に理窟を述べて、私の解釋の正當性を示さうとした。
それに對して、メモ8氏の取卷きの人々は、一人の例外もナシに、内容の檢討をしないまゝ、「野嵜は勝ち負けにこだわっている」とレッテルを貼り、野嵜を取卷いて嘲笑した。私の理窟の妥當性について檢討した人が一人もゐなかつた事實は注目に價する。「論ずるまでもなくメモ8氏の言つてゐる事が正しい」と彼等は信じたのだ。

日本人は、昔から、方針を決定するに至るまでの過程を説明せず、頭ごなしに結論を押附けるやり方を好む――と言ふより、それは押附けではなく、「決定」なのだから、從ふのが當然だ、と考へるのだ。説明するのは、正しくない事を無理やり他人に押附ける手段である――日本人は、説明する事を「負け犬が吠える」事だと思つてゐる。相手が説明を始めると、その人は自分に無理やり自分の「正義」を押附けようとしてゐるものと極附ける。

逆に言ふと、日本人が他人に説明を求めるのは、説明を聞いて納得する爲ではない。粗探しして揚げ足を取る事の出來るやうな材料・ネタを、相手自身に提供させ、相手の努力の結果として相手が自分の主張を通せないやうに仕向ける爲・その結果として事態が自分に有利に事が運ぶやうにする爲だ。
今、八ツ場ダム建設の問題で、建設中止を決めた民主黨に、建設促進を訴へる人々が「對話」を要求し、讀賣新聞が「説明」を求めてゐる。これらは、民主黨の主張を聞いて、納得して、その主張を受容れようと云ふ意圖に基くものではない。明かに、説明の中から誤・をかしなところ・つつけるところ・問題にで來るところを、拾ひ上げ、問題化し、糺彈の刃を民主黨に突きつけ、民主黨に方針の撤囘を迫らうと、さう云ふ狙ひなのだ。
讀賣新聞は、マニフェスト選擧の御手本がイギリスのそれである事を指摘し、イギリスではマニフェストの策定の過程が全部公開されてゐる事を言つてゐる。しかし、日本では、全てが秘密主義である――讀賣新聞は、民主黨にマニフェスト策定の過程を公開するやう求めてゐる。
だが、日本に於ては、説明は「負け犬がする事」なのである。民主黨も、それを知つてゐるから、「説明しない」で「結論だけぽんと出して示す」從來からのやり方をとつた。今、説明が要求されてゐるのは、要求する人が民主黨の方針に反對してゐるからである。民主黨を負けさせる爲に、説明を要求してゐるのだ。

日本人は、説明する事を、誠實の證と見ない。逆に、不實の決定的な證據だと堅く堅く信じてゐる。国語改革の時も、国語審議会はなぜ或漢字を選び或漢字を選ばなかつたのか、等々、一切説明しなかつた。日本では、政策は、お上から一方的に押附けられるものであり、その昔ながらの方針を、「民主的な改革」を標榜した改革派の人々は平然ととつたのであつた。

今、私が説明しても、メモ8氏の支持者の人々=アンチ野嵜の人々は、野嵜が自ら自分を「負け犬」に仕立て上げてゐるものと思つて、嗤つてゐる。私は、イギリス流のやり方は正しいと信じてゐるから、説明するが、それは日本で通用しない。
が、日本人の方がをかしい。
説明しないで力で壓しつけるのは、封建時代の統治のやり方で、「無知な民衆をお上が指導・教導する」と云ふ事にほかならないからだ。今の時代は、民主主義の時代で、議論と批評の時代だ。ならば説明するのは意見を述べる人間の義務である。その邊を勘違ひしてゐる日本人は大變に多い。
統治の方法として、説明拔きで結論だけ押附けるやり方――メモ8氏の支持者らが喜んで受容れてゐるやり方――は、統治・被統治の關係に基くものであり、愚民政策を前提とするものであり、要は彼我の不公平な關係を前提とするものだ。
彼等メモ8氏の取卷き集團の考へでは、「前提として既にメモ8氏と野嵜との關係は不公平な關係である=野嵜は負け犬でメモ8氏は最初から事實として勝つてゐる」のである。勝ちに行く必要はない――既にメモ8氏は野嵜に「事實として勝つてゐる」。なるほど、これならメモ8氏は、輕蔑すべき「勝ちに拘る」態度をとる必要がなくなる。理論武裝として「理想的」なものだ。
が、理論武裝で「勝つ」事と、論理で正當性を示して結果として「勝つ」事とは全く違ふ。黒を白と言ひくるめて「勝つ」のと、理論武裝で「既に勝つてゐる」のとは、正しさへの視點が缺如してゐる點で、全く同じだ。「自分に都合の良い結果になれば良い」――メモ8氏は、さう願ひながら、それを露骨に示す事を嫌つて「勝ち負けにこだわるディベート的議論は嫌だ」と表現した。「こだわりさえしなければ、自分が勝つ事は面白いから良い」のだらう。