闇黒日記?

にゃもち大いに語る

何うしても「私が誤讀した」とは考へられない

メモ8氏が「誤讀」と言つたのがそもそもメモ8氏の惡意を露骨に示してゐるので、「誤解させてしまつたやうですね」とでも言つて呉れば話は穏便に濟んだ筈だ。

實際、私はメモ8氏の發言を、解釋してゐない。メモ8氏は、野嵜がメモ8氏の用語をそのまゝにメモ8氏の言葉を繰返してゐれば「正しく解釋して呉れました」と言つたのだらうが、野嵜はメモ8氏の言葉を通して、メモ8氏の發想それ自體を分析し、推定したのだ。メモ8氏の視線と私の視線が異つてゐるのは、問題意識の違ひであり、その異る問題意識から、私はメモ8氏の價値觀を示したのだ。

少くとも、メモ8氏の「面白主義」に基く「面白い議論」と、私の考へる「正しさを明かにする爲の議論」とは、領域が重なり合はない。これは決定的に重なり合はない。何しろ、メモ8氏が面白いと思ふ議論では、常に、例外なしに、結論が對立から「止揚」されねばならないのだ。私は、對立した意見は、どちらかが正しいと明かになるか、そもそもどちらが正しいも正しくもない――當るも八卦當らぬも八卦のやうなテーマをえんえん話してゐるだけである事が明かになるか、何れかの結果になるに決つてゐると思つてゐる、「止揚」なんて事は、綺麗な言葉を使つてゐるだけで、絶對にあり得ないと思つてゐる。が、どうせメモ8氏も、本氣で言つてゐる訣はないだらう、何しろ「失禮なコメントを書込んで來た人」を見て嬉しがつてゐるのだ。締めには「メモ8さん」と自分で自分にさん附けしてゐる。本氣で自分を尊敬して見せてゐるとしたら××××だが、さうでないならメモ8さんは最後にジョークを言つてゐるに決つてゐる。ジョークなら結論である訣がない。落ちに過ぎない。

メモ8さんが一生懸命語つてゐるのは、「同じ場所で話をする『議論』」と「違ふ場所でそれぞれ物を言ふ『言いっぱなし』」の事だが、しかし、「同じウェブ上で語つてゐる」のなら、或テーマで話をし、敵の存在を意識してゐる限り(もちろん、無視してゐるのも、意識してゐるのである。しかし、意見を言ふ時、その意見を否定する考へ方を想定するのは、普通である)、それは意見を戰はせてゐるのであり、議論である。が、メモ8さんには、人と人とが直接「向ひ合つて」ゐるかゐないかが問題になる。私にしてみれば、そんなのは神經質な考へ方で――事實として、「公共の場」で、「誰にでも見られる」のならば、「あつちの意見」と「こつちの意見」が「ばらばら」だと考へる必要は全く無い。今はネットの時代だ。何處にゐたつて人は繋がつてゐる。

だから、私にしてみれば、メモ8さんの所謂「議論」「言いっぱなし」の區別は「止揚」されるのであり、全ての意見の對立が議論として看做される。が、そこでは「良い議論」「惡い議論」を區別する事が可能となる。そこで「良い議論」として私は「正しさへの視點に基づいた議論」を想定し――それはメモ8さんの「面白主義に基づいた議論」と決定的に對立する。「議論の本質」をメモ8さんは「問題にしていない」と言ふけれども、私の考へてゐるのも「議論に對する論者の態度」であり、その點で私とメモ8さんとの間には話をする共通の地盤がある。その上で、メモ8さんのAの立場と、野嵜のCの立場との、どちらに「勝ち負けだけを求め、物事の理非・正しさそれ自體への視點を持たない言爭ひ」をくつ附けるべきか、と考へた。メモ8さんは、「面白主義」だから、「面白くない議論」は全部ひつくるめるだらう。しかし、そもそもの「面白主義」に私は異義があるのだ。だから私は、Aの立場とBの立場とは本質的に同じと指摘し、それをメモ8さんが「面白主義」の觀點から「違ふ」「違ふ」と言つてゐるのを嗤つた。
さうしたらメモ8さんが「誤読です」と、例によつて木で鼻をくくるやうな「事實の指摘」のやうな態度で言つて來たから、私は憮然としたわけだ。