闇黒日記?

にゃもち大いに語る

政治、政治、政治

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御金を刷つても、刷らなくても――世の中、100%確實に「良くなる」なんて、言ふ事は、絶對に出來ません。
新自由主義にしても、そのアンチの考へ方にしても、所詮は當るも八卦當らぬも八卦、結果なんてわかりません。状況次第で、何んな惡い政策でも良い結果に繋がる事は、可能性としてあり得ます。「絶對にねえよ」みたいな口を、Kirokuroさんならきくでせうが、まあ、政治に絶對なんてものが、ある訣がありません。

そんな事より、新自由主義でも、Kirokuro主義でも、まあ何でもいいです、兔に角「經濟が良くなる」とか「社會が良くなる」政策とやら、それの、どれでもいいですが、そんなものが假に巧く行つたとして、それで、個人の人間がより良い存在に「なる」と云ふものでせうか。Kirokuroさんは熱心に政治の話をしてをられますが、政治がKirokuroさんの考へるやうに「良く」なつたら、野嵜は増しな人間になりますか。
もちろんKirokuro先生からは何うせ「野嵜が増しになるわけがない」みたいな答が返つて來るだけですが、一般論として政治の良し惡しによつて個人の善し惡しが變化するなんて事はあり得ないのであつて、政治と個人の道徳とは全くの無關係です。

が、ならば、政治と云ふものには限界が「ある」と、さう言ふ事が出來ます。

政治の相對性は、言ふまでもない事實です。Kirokuro先生も反論しません。が、ならば、なぜそんなにKirokuro先生は、熱心に、政治家や政治に關聯する人を「悪」「危険」「馬鹿」と決定的に極附けて、居丈高に罵れるのでせうか。
もちろん、Kirokuro先生は、答へません。「野嵜のような人間以下の存在に答へる必要はない」と、返事が返つて來るだけでせう。「お前なんかには恩惠なんて無くていいんだよ、俺たちだけが得をすればいいんだ」――いやいや、そんなにKirokuroさんは、改善されなければならないほどの貧しい暮しをしてゐるのでせうか。

……もちろん、人間の間に序列を作る考へ方を當り前のやうにしてゐる危険性を指摘する事は出來ます。が、そんな事をしてもKirokuro先生には理解できません。そもそも、絶對的な事が言へない領域で、絶對的な極附けをやらかす愚かさすらも、Kirokuroさんには解らないのです。だからこそ、Kirokuro先生は、政治的な敵を、道徳的に非難する、と云ふ、をかしな非難の仕方を、當り前のやうに、えんえんと、何年も何年も、熱心に、續けられる。
自分は政治と云ふ大變高尚なものを扱つてゐるのだ、だから政治をバカにする野嵜のやうな愚か者にはどんなに非道い態度をとつても構はない、さうKirokuro先生は曰ひます。が、政治なんてそんなに高尚なものではないです。八百屋さんや魚屋さんが野菜や魚を賣るのと、政治家さんが政治をやるのとは、同じ程度の意義を持つに過ぎません。ただ影響力が違ふだけです。が、それは相對的な違ひでしかありません。八百屋さんで野菜を買つてゐる何とかさんにしてみれば、八百屋さんの存在は自分の生存に十分大きな意義を持つてゐます。政治家の存在もその程度の意義を持つてゐるに過ぎません。
が、さうした生存の爲の職業の間に相對的な差しかないのなら、生存の域を超えた領域での職業――藝術家でも司祭でも構ひません――の間にも、いや、職業として專門にしてゐるか、素人であるか、ですら、この場合は、相對的な差しかない。なぜなら彼等は、御金を稼ぐ事を目的としてゐるのではないから、御金を稼いでゐるかゐないかを基準に判斷する事は無意味になるからです。

ところが、Kirokuroさんは、さうした相對的な程度の差を、極端に誇張して、恰も「絶對」の差があるかのやうに、勘違ひしてゐます。そして――ああ、素人の政治運動家としてのKirokuroさんと、專門家の政治家との間には、Kirokuroさんは、線を引く事が出來ないのです。寧ろ、專門家の政治家よりも、素人の政治運動家・Kirokuroの方が「偉い」かのやうに、屡々Kirokuroさんは、權威的に振舞ひます。傍から見れば滑稽なだけですが、この權威主義に基づいた執拗な攻撃が直接仕掛けられてゐる當事者にしてみれば、まあ、迷惑なだけです。