闇黒日記?

にゃもち大いに語る

神學と科學

論爭は、「神學的論爭」と「科學的論爭」の二つに完全に分けられる。
「神學的論爭」と云ふのは、價値觀に就いての論爭であり、「科學的論爭」とは、事實を説明する法則についての論爭だ。

何れも、一貫した理論を構築する事を目的とした論爭だが、大きく異る點がある。
「神學的論爭」は、論者が共に信じてゐる一つの價値を大前提に、その價値によつて反證されない理論を提示する事が、結論としての「勝ち」を決定する。
「科學的論爭」は、ただ、當座、事實によつて反證されない理論を提示する事が、結論としての「勝ち」を決定する。

※或宗教の内部において、一つの基本的な價値を認めた下で、敷衍的に構築された理論の正邪を爭ふのが、狹義の神學論爭だが、ここでは廣義の意味で言つてゐる。實は、價値に關する論爭であるのだから、「神學論爭」と言つても「イデオロギー論爭」と言つても良い。少くとも、論者の間で一つの基本的な價値が認められてゐる事を、議論の大前提とする。

例へば、私とメモ8氏との論爭では、「自分の勝ち負けにこだはる議論」を「良いと認めない」と云ふ彼我の共通認識に基いて、一貫した價値觀を構築する事を爭つてゐる。だから「神學論爭」だ。

私とGAHAHA氏との爭は、「如何なる表記を日本人は採用すべきか」と云ふ「べき論」に屬する。日本人が採用すべき假名遣ひ・國民が從ふべき表記について、私は「科學的な成果を基準にすべきである」と述べてゐるのに對し、GAHAHA氏は「政府權力が決定すべきである」と述べてゐる。
彼我の間では、共通認識として、民主主義と云ふ前提をともに認めてゐるのであるが、さうなると、結論としては、「權力による押附け」が認められない事は言ふまでもない。

そこでGAHAHA氏は、「歴史的假名遣」が「科學的」か、と云ふ設問の仕方をして、恰も「規範は科學である」と野嵜が主張してゐるかのやうに極附けて、「野嵜は愚かである」と宣傳し、野嵜の發言を封じ込める戰術に出た。これは、Kirokuroや「義」もやつた攻撃の仕方で、「人格攻撃」と言ふ。
惡い主張の仕方に歪曲して、一方の論者が他方の論者の主張を異常に見せかけるのは、議論を不毛にする事だから、良い結論を導き出し、世間に役立てる目的の、公共の場での議論の仕方として、甚だ不適切だ。だから、適切に相手の主張を讀取り、そこにある論理を見出す事は、必要である。もちろん、判然としない理窟を、整理して、互ひに確認し合ふ時、何れも自己の都合を離れて、客觀的に檢證し合はなければならない。

「規範としての歴史的假名遣」は「規範として採用された歴史的假名遣」の謂であるが、採用される以前の、研究結果としての「歴史的假名遣」と云ふもの、それが「科學的に見出された國語の表記の法則であるか否か」が問題となる。「明治政府によつて規範として採用された歴史的假名遣」とGAHAHA氏も言つてゐるわけだが、では「明治政府は何を採用したのか」と問はれた時、GAHAHA氏は「歴史的假名遣」だ、と、平然と答へるだらう。では「歴史的假名遣」とは何か、と問はれたら、GAHAHA氏は、何と答へるだらう。「明治政府によつて採用された歴史的假名遣である」と、答へ得るだらうか。その時、「採用された」とか云ふ言ひ方をする事が出來ない、客觀的事實としての「歴史的假名遣」が存在する。それが「科學的に明らかにされたか何うか」、と云ふ設問をする事が求められるのであり、その時「明治政府に採用されたのだから非科學的だ」とGAHAHA氏が依然として主張してゐるのは、理解を絶する。

その、「明治政府に採用される以前の、法則としての歴史的假名遣」は、既に認められてゐるものであり、改めて議論する必要は無いと思ふ。