闇黒日記?

にゃもち大いに語る

言葉を使ふ事や國語の教育について

言葉によつてコミュニケートする、とはどんな事なのか、を反省しておきませう。

先づ表現主體の活動が起ります。

何かがもやもやと頭の中に作られる

意思によつてもやもやとしたものが思想としてはつきりとさせられる

思想が外部に形式的に表現される

次いで、この表現された思想を受容する人がゐます。

形式的に表現された思想を目や耳で受容れる

思想に觸發されて頭の中に自分なりの概念が形成される

感情や判斷が生ずる

この一聯の流れによつて、表現主體から受容者へと「言ひたい事」が間接的に傳はると言ふ事が出來ます。

この時、形式的になされた表現は、繪でもアニメーションでも、純粹な音階の連續でも構ひません。所謂音韻や文字である事もあり得ます。この時、我々は「音聲言語によるコミュニケーション」或は「文字言語に據るコミュニケーション」があつたと言ふ訣です。


この「言語に據るコミュニケーション」は、學校教育によつて獲得されるものではありません。小學校の學校教育以前に、全ての子供は親やその他の人々との接觸の中で、自然に・經驗的に、言語活動の方法を身に附けます。算數や理科或は社會といつた教科は、何も知らない子供に教師が知識を傳達する、と云ふ前提で行はれますが、國語と云ふ教科はそれと異ります。
となると、國語科の存在意義が問はれねばなりませんが、その目標は、簡單に言ふならば「より良く國語を使へるやうになる事」であるとなりませう。この「より良く」と云ふ事、これを我々はよくよく考へる必要があります。
小學校入學の時點で、基本的に全ての健康な子供は言葉を話します。多少の讀書きが出來る場合もあります。さう云つた子供達に國語科で教師は何を教へる筈で、何を教へるべきであるか。

「より良い表現の仕方」でせうか。成程。屡々言はれる事です。取敢ず「より良い」とは何かを檢討しませう。
我々は、「國語の表現」について「社會的な契約で定められた方法」「國家が定めた方法」と、矢張り簡單に言ふ事が出來ます。けれども、それが「より良い」ものであると即座に言ふ事は、餘りにも危險であると評さざるを得ません。なぜなら、社會で一般的だから良い、國定だから良い、と云ふ判斷は、成立たないからです。
しかし、私は先に言語に據るコミュニケートとは何かを示しました。ここで明かなのは、「表現=形式的表現」は、コミュニケートのプロセスの一部分に過ぎない、と云ふ事です。となると、表現それ自體の善し惡しと云ふものは存在せず、コミュニケート全體の質的向上と云ふ觀點から問題は論じられねばならない、と言ふ事が出來ます。

主體的表現と受容的理解を通したコミュニケーションは、間接的なものですから、決して確實なものではありません。だからより良いコミュニケーションを實現する爲には、思想のより整理された形での形式化、そして、整理された形式的思想の正確な概念への轉換が要求されます。
國語科の教師に要求される「教へるべき事」とは、實にこの二點であります。


我々は、コミュニケーションに於て、無形式の思念から形式的な思想への轉換、そして形式的な思想に觸發された無形式の概念の發生、と云ふ二つの事が重要なポイントである事を知つてゐます。國語の教育が、言語活動によるコミュニケートの質的向上を目指すものであるならば、この二つのポイントで質的向上がなされねばなりません。
この目的に合致する教育の仕方が要求される事は、論ずるまでもありません。そして、國語教育の觀點から言へば、形式的な思想の表現媒體の質的向上こそが、結果として導き出されて然るべきであるのです。

現在の日本の國語教育で、「讀む」「書く」「聞く」「話す」の技術の向上が依然として言はれ續けてゐます。それは如何にも尤もらしい外觀を具へてゐますが、それ自體としては、惡い意味で「形式的」であるに過ぎません。内容として、我々は如何なるものを目指すか、が問はれてゐます。
常用漢字」「現代仮名遣」が、教へられるべき國定の表現媒體である事、そして現代の日本の社會で一般的である事は、論ずるまでもなく事實です。けれども、これが既に指摘した通り、單に「國定である」「一般的である」と云ふだけのものである事も、事實です。それらは「良い」と云ふ觀點から吟味されたものではありません。そして、吟味される爲には、教育に於る對目的效果とでも云ふべき觀點から、改めて檢討される事が必要でせう。
思想の形式としては、整つてゐる事・體系的である事は、「良い」と云ふ事を適切に言ひかへたものとして認める事が出來るでせう。となると、「常用漢字」「現代仮名遣」は、果して整つたものか・體系的であるか――さうでないのは餘りにも明かです。
極端に言ふと、「常用漢字」「現代仮名遣」は共に、未教育の・文盲の人々に與へられるべき、便宜的で許容的な最低の規範――簡易的な表記の規則、としてのみ存在すべきでした。教育に於て教へられるべき、整理され・體系化された・良い國語表記の形式として、それらは非常に不適切だと言はざるを得ません。


この結論には、多くの人が違和感を持つでせう。けれども、「常用漢字」も「現代仮名遣」も、それがより良いものか、の檢討を拒む物である事は、「國定」であると云ふ事實によつて明かです。しかし、より良い教育の爲に必要な物と云ふ觀點からは、ありとあらゆるものが檢討されねばならないのです。教育の目標物として・教育によつて達成されるべきゴールとして、我々はより良い表現形式・より整理された表現形式・より體系的な表現形式を必要としてゐます。それが「常用漢字」「現代仮名遣」では餘りに低レヴェルでありカオス的であるのです。
と言ふより、教育を受けたならば、我々は、整理された思考の仕方或は秩序だつた行動をとる態度を、自然に身に附けてゐなければならないのであり、自然に整理された書き方・秩序だつた書き方をしてゐなければならないのであります。それが「常用漢字」「現代仮名遣」を用ゐてしまふ結果に終つてゐるとしたら、それは現代の國語教育が失敗してゐる事を意味します。