闇黒日記?

にゃもち大いに語る

Kirokuro氏の主張の意味

Kirokuro氏がTwitterでまた人の惡口を言觸らしてゐる。

福田恆存を権威付けに利用し、方方に喧嘩を仕掛けて結果四面楚歌になった哀れな男の物語。


この惡口は、彼が7年前、私に粘着を始めた當初から言續けてゐるものである。ところが、7年もの間、ずつと彼が「言續けてゐる」事で、すつかり意味が變つてしまつた。Kirokuroが言つてゐる意圖と反して、この發言ははつきり意味を持つやうになつてしまつたのである。それも二つの意味を、である。

一つは、「野嵜は福田恆存を権威付けに利用してゐない」と云ふ事だ。
これは簡單に解るだらう。もし假に「野嵜が福田恆存を権威付けに利用していた」としよう、その場合、Kirokuroが「野嵜は福田恆存を権威付けに利用している」と指摘する事で、野嵜は現實に「権威付け」に失敗してゐる事になる。野嵜が本當に「自分の権威付けをしたい」と願つてゐたら、野嵜は最早「役に立たない」福田恆存を「利用する」事を抛棄してゐるはずである。
ところが私・野嵜は依然として福田恆存を尊敬する事をやめないし、福田恆存の主張を支持してゐる。
Kirokuroが「野嵜は福田恆存を権威付けに利用している」と言續けた結果、「野嵜は福田恆存を権威付けの爲に利用してゐるのではない」と云ふ事實は立證されてしまつた。


もう一つは、「Kirokuroは、他人を利用する・しない、の觀點から、もつぱら人を評價してゐる」と云ふ事だ。
こちらは心理的な評價だが、しかしここから最う一段、考へを進めて良いと思ふ。そこで引出せる推測は、「Kirokuroはもつぱら、利用できる・できない、の觀點から、他人と附合はうとしてゐる」と云ふ事だ。
斯うした態度は、利用できると判斷すれば身内に引き込み、利用できないと見れば即座に切捨てる、と云ふ態度に繋がる。實に身勝手な態度だが、これまでの七年間のKirokuroの行動を見ても、大體納得できる事實であると思はれる。

なほ、野嵜は自分から他人に喧嘩を賣つた事はない。他人が喧嘩を賣られて、酷い目に遭はされてゐる際に、辯護に行つただけである。岡田俊之介先生の時もさうだし木村貴氏の時もさうである。それで逆恨みされて、竹下義朗やアレクセイ(園主)から散々な中傷を浴びせられてゐる事は、Kirokuroも知つてゐる事である。彼らがをかしな人種である事もKirokuroはよく知つてゐるが、さう云ふ彼らの申告を、Kirokuroは頭から受容れてゐる。

一方、「義」からの嫌がらせに屈しさうになつた時、多くのウェブサイトの運營者の方々から支援をしていただいた。この事は死ぬまで忘れない。あの時は本當に有難うございました。