闇黒日記?

にゃもち大いに語る

政治目的で主張された「南京大虐殺」なるもの

政治思想の押附け合ひには意義を感じない。

南京大虐殺」が「あつたと云ふ結論」にではなく、「南京大虐殺」が「あつたと結論を出すに至るまでの思考・檢討の過程」に、野嵜は反對したのだ、と云ふ事を、「あつた派」の人も「なかつた派」の人も理解しなかつた。
南京大虐殺あつた派」の人々は、不適切極まる方法で「あつた」と結論を出して平氣だつた。これは、「あつた」と結論を出した方が、彼等「あつた派」の人々の政治的信條にとつて好都合だから、さう「信じた」のである。
一方、彼等「南京大虐殺あつた派」の人々は、彼等自身がさうだから、野嵜が「なかつた」と言つたのは、「その方が自分の政治的信條にとつて都合が良いからだ」と解釋した。

そもそもの用語の定義の段階で、彼等「南京大虐殺あつた派」は、頑強に抵抗した。「南京」の領域、「大」のレヴェル、「虐殺」の主體性――さうしたものを全て曖昧にしたまゝで、「兔に角日本人が反省する事に意義がある」と、彼等は主張した。「日本人を反省させる」と云ふ目的があつて、彼等は「南京大虐殺はあつたのだ」と主張してゐた。「客觀的な・歴史學的な根據」があるかのやうに言つたのは、彼等にとつてその方が都合が良かつたからでしかない。もし本當に純粹に歴史學的な立場から物を言つてゐるのならば、彼等は「日本人に反省させる」等と云ふ事は口が裂けても言へなかつた筈である。
政治的な目的で何かの結論を出し、それを他人に押附けようとする――下らない事だ。

南京大虐殺」論爭は、「下らない政治的信條の押附け合ひ」の域を出なかつた。私は歴史的な檢討を要求したのだが、「あつた派」は、それが政治的な目的を達成する障碍になる事を知つてゐたから、必死になつて野嵜の排除にかかつた。
政治的主張をするのは空しい事で、やるに値しない。宗教的な主張をするのは、それに比べると、遙かに大きな意義がある。

http://twilog.org/nozakitakehide/date-100629/