闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「日本に道徳がないといふのは」

「日本に道徳がないといふのは、教条的なものがないといふことでせうか。」

日本には教條的なものしかない、と考へます。徳目・教條と云ふものはあるんですが、葛藤も相克もないんです。だから道徳と云ふものは無い。

日本人は皆、徳目の體系性とか理論とかを面白がつて考察するのですが、實際の生活で活かす事がまるでありません。「教へ」に從つたか、從はなかつたか、といつた簡單な基準で「判定」するくらゐです。教條・徳目の類は「不自然だ」、と文句を言つて、「私は自然な生き方をする」と宣言したり……。さう云ふ單純で素朴な割切り方しか、日本人はしない。
歐米の連中は皆、「敵」の存在を意識してゐます。歐米には、絶對的な教へを作り、人々に頭から押附ける強大な宗教=キリスト教が存在してゐます。歐米の個人主義者は、キリスト教と云ふ強力な強制者の存在を意識し、キリスト教との對決を覺悟してゐます。一方、日本人の個人主義者が「敵」の存在を意識してゐる事はありません。皆、氣樂に、個人主義をやれると思つてゐます。

日本人の場合、どんな問題でもえらく簡單に割切るんです。何でもバッサリ切るのがえらい、と皆思ひ込んでゐる。葛藤でも相克でも、あつたら馬鹿なんですね。
ところが、人間の内部の矛盾・相克を意識し、それに耐へて行く事が人間の宿命である、と、キリスト教の連中は昔から考へてゐる。その邊は、日本人よりもクリスチャンの方が考へが深いですね。
――と言ふより、日本人は、自分の考へが淺いものだと考へておいた方がいいんです。さうして反省した方が、日本人の爲になるだらうと思ふのです。けれども、意地でも日本人を立派な事にしておきたい國粹主義的な(笑ひ)人逹がゐるんですね。「日本人への反省を迫らうとする日本人」を「非國民」扱ひして、排斥しようとする。Kirokuroなんかは利口だから「傲慢だ」なんて言つてゐますけれどもね。そんなところに知恵を働かせてもしやうがないと思ふんですが。
もう意地になつて「日本人は反省する必要がない」「日本人は世界一立派なのだ」と、さう言張る人が、いまだにゐるんです。何年か前に「自虐史觀」と非難された人、国際主義的な左翼の人……戰爭で負けて、右翼では駄目だと思つた人逹が、右から左に乘換へただけだと思ひますね。

「日本人にはこんないいところもあるんだ、歐米の連中より日本人の方が遙かに増しだ」と、そんな事を言つて、あれこれ具體的な根據を擧げる人が非常に多いのですが、そんなに自分の事を褒め上げたいのですか、と聞きたい。良いところがあつても、惡いところだつて人間、必ずありますよ。
重要なのは惡いところを見附けて反省する事。日本人にもいいところは、あるに決つてゐます。けれども、惡いところもあるに決つてゐるし、その惡いところを何とかしなければ、良いところがいくらあつても仕方がない。

人間の一切の惡の元兇はエゴイズムにあります。キリスト教は、そのエゴイズムを抑壓する、良く出來たシステムであるのですが、日本人には馴染みが無いし、日本人とは無縁のところで出來たものだからそのまゝ適用する事は出來ません。
日本人も、勿論エゴイズムを抑へる手段は考へたのですが、今の時代に一般に通じるほど強力な手段となつてゐません。禅にしても論語にしても、よつぽどよく教へ込まれなければ實踐出來ませんし、今の日本人には最早「自分のもの」と認識する事すら出來なくなつてゐます。
現状、日本人は自分のエゴイズムを抑制する手段を持つてゐません。世間體を氣にして、個人個人がストイックに振舞つてゐるだけです。だから世間體を氣にしないで良い場面で、日本人は屡々傲慢になる。「個人主義が自己の信念である」と宣言して、思想的な正當化を行なつた上で、傲岸不遜な振舞ひを堂々ととる人も出て來てゐる始末です。

しかし、思想を語る場面で「個人主義者」を自稱しつつ、態度は大變叮嚀で常識的な「おとなしい日本人」と云ふ人も少くない。それが一種の戰術にすら見えかねないほど、わざとらしい叮嚀さを示す個人主義者が、ウェブにはごろごろ轉がつてゐます。日本人の個人主義者の、思想と實踐の不一致は、奇妙なものです。
日本人の個人主義者は實に巧みな現實への妥協を考へたのです。「社會に迷惑をかけない限り自己に忠實に振舞つて良い」――斯うなると、ただの處世術に過ぎないのですが、これでも日本人には「個人主義」になつてしまふ。

福田恆存は、個人主義の横行する現代の世の中を見て、最早個人主義を徹底させるしかない、と言ひました。さうする事で、個人主義は乘越えられるしかないと福田さんは考へたのです。しかし、二十一世紀に入つた日本で、多くの個人主義者は淺薄・皮相の域に留まつてゐる。