闇黒日記?

にゃもち大いに語る

後世に殘る政治

村山氏にしても菅氏にしても、左翼方面の連中が政權を取ると、權力を使つて自分の好きな事をする。タカ派の人が首相になつても、こんな「後世に殘る事」は絶對やらない。
村山談話を見ても菅談話を見ても、日本人は戰前、胸を張れるやうな事は一切しなかつたのだなあと、しみじみ思はされる。

謝罪し捲りの今になつて、却つて「日本は世界のリーダだ」とか、そんな事を言ふ人が澤山出てくるやうになつた。どの口がそんな事を言へるのだらうと不思議に思ふ。本當に反省してゐるのなら、日本は大國みたいに振舞ふ事それ自體からやめればいい。
「日本人は、謝罪をした事で立派になつた、だから世界のリーダになれるのだ」――こんな事を本氣で信じてゐる左翼や「自虐史觀」の人が、日本には極めて大量に存在する。もちろん、信じてゐるけれども、彼等はそれを口には出さない。ただ、道徳的に説教をし、他人を見下してゐる時點で、彼等は態度で示してゐる。
「正しい歴史」を主張する人に限つて、「日本人は反省し、謝罪すべきである」と主張する。
「客觀的な事實を探究すべきだ」と言ひながら、主觀的かつ「道徳的」に「日本人は何う振舞ふべきか」を命令する人がゐる――私にはその邊の支離滅裂さが氣になるのだが、何であれ「正しい」ならそれでいい、と好い加減に考へてゐる人が非常に多い。
私は何時も、合理主義者・唯物論者・無神論者の人逹を疑つて來た。彼等は客觀的な事實や論理を述べるが、なぜさう云ふ事柄を述べるのか、或は、なぜそのやうな事に興味を持つたのか、と云ふ動機を、一切説明しないからだ。
「日本人は過去に何をやつて來たか、客觀的に眞實を明かにせよ」と主張する人々が、現代の日本人に「過去の歴史を反省し、謝罪せよ」と道徳的な説教をする。彼等は、自分の「道徳的な説教」に權威附けをしたいから「客觀的な事實」とスローガンを言つてゐるのだらう。
南京大虐殺」は「あつた」、「従軍慰安婦」は「あつた」と言ふ人々の動機を、私は直接尋ねたけれども、彼等は全員、例外ナシに、欺瞞的な答へを返した。だから私は「あつた」派を、人間として、信用しない。
動機をごまかしてゐる人が「正しい事」を言つたとしても、私はその人を信用しない。

アンチの連中も屡、動機をごまかしてゐる。Kirokuroなど、もつとも信用出來ない手合の一人だ。

「歴史的事實」を盾に取る人は、歴史が「事實の解釋」だと云ふ原則を忘れてゐる。
「謝罪せよ」なんて道徳的説教をかます人々が示す「歴史的事實の解釋」は、大抵をかしい。こちらが「解釋のをかしさ」を指摘すると、彼等は居丈高に「事實だからw」と言張る。自分が歴史を解釋してゐる事を、彼等は自覺してゐない。
「犬が歩いてゐる」と云ふのは、成程、事實だ。が、「犬が歩いてゐる。だから謝罪せよ」と言ふ人がゐたら、頭がをかしい。ところがその人が「犬が歩いてゐるのは事實だ」と言張つたら何うだらう。頭がをかしい事に變りはない。事實を事實と言張る事はこの場合、ナンセンスである。
――さて今、私は奇妙な例を示して、安易に「だから」と解釋を披瀝する愚を示した積りだ。をかしいのは彼等である。ところが、彼等は批判者ををかしい人間に仕立て上げる。「謝罪派」の人々は「この例を示した野嵜こそ頭がをかしいのである」と言つて、宣傳を始める。
異常な事を言ふ連中の論法は、常に異常だが、彼等は自分が異常だと思はない。しかし彼等は、「野嵜は異常」と宣傳する。彼等は宣傳によつて、嘘を「事實」に仕立て上げてしまふ。
異常な人の異常さは、論理の異常とともに行動の異常にも現はれる。彼等異常の人は、實に熱心に宣傳活動に勤しむ。そして、異常だと批判されると、批判をまたへんな解釋でねぢ曲げる。

「反省しろ」「謝罪しろ」と他人に要求し、執拗に絡む人々は、自分自身は絶對に反省しない。彼等にとつて謝罪は「して見せる」ものである。彼等は、全く何うでもよいところで謝罪の文句を吐き、自分が如何に「誠實」な人間であるかをアピールする。心から反省するとか心から謝罪するとかいつた事を彼等はしない。できない。彼等は不誠實である。
不誠實で自己中心的な人間だからこそ、他人に「反省」や「謝罪」を要求出來る。不誠實で輕薄な人間が、他人の誤を指摘し、居丈高な態度をとり、敵に嘲笑を浴びせ、快を貪つてゐる。文章を見ると吐き氣を催すくらゐの嫌な人間だが、その人が實に重々しく謝罪だの反省だの言つてゐるのだから氣味が惡い。
「過去の日本人の誤」を指摘し、「謝罪」を要求する現代の日本人は、大變な道徳好きで、説教好きであるが、道徳好きで説教好きの人間が如何はしい事は、Kirokuro氏が繰返し指摘してゐる事實である。

菅總理は、談話を發表する際に、「前向き」な文言を入れる事で外向的に不利にならないやう工夫したさうだ。けれども、日本語の文言なんてものを幾ら弄つたところで、外國の人には通じない――それどころか却つて不信を買ふ。大變良く知られた事實である。
安倍元首相も、好き放題にタカ派的な談話を次から次に出しておけば、短い任期であつても後世に名を殘せただらう(※この記事の元になつた文章は2010年に公表したツイート)。着實に政策を實行しようとするよりも、適當に物を言つた方が、あとあとまで影響を殘す事になりがちだ。
兔に角、何であれ「形」を殘して置く事が、日本の政治では大事である。「内閣告示」然り「談話」然り――日本の政治で後世に惡い影響を與へたのは全てこの手の「實際には何の拘束力も持たない筈のもの」だ。
村山談話」を撤囘せよ、と云つた「強硬」な意見が出て來ない。保守派も謝罪派も「村山談話」を意地でも守らうとして、身動きがとれなくなつてゐる。

俺もアンチ相手に隨分低姿勢の態度をとつたんですけれども、侮られるだけで何のメリットもありませんでしたね。憎まれるくらゐの方が良い、と云ふ事も世の中多いです。