闇黒日記?

にゃもち大いに語る

教育の結果としての「現代仮名遣」信仰

我々は、子供の頃から「現代仮名遣い」や「日本国憲法」は「良いものである」、或は「今の日本は最高に良い国である」と教へ込まれてゐるから、それらを疑ふ事が出來ない。
我々は、左翼的で進歩的な思想を子供の頃から「正しい」ものとして教へ込まれ、「常識」として受容れてゐる。だから少しでも反動的に見えるものに接すると、かーっとなつて、向きになつて罵倒し始める。

日本に存在する反體制派の人は全員、一人の例外もなく、國に據る教育によつて「反體制は正しい」と信じ込むやうになつた。實は、反體制派は、現在の體制に深く入り込み、體制の力を利用して反體制教育をやつてゐる。
我々が今の日本の體制を「正しい」と信じ、新しいものを「良い」と信じてゐるのは、子供の頃にさう教育されたからに過ぎない。「あたらしいさんすう」云々。
我々は、子供の頃の習慣を、「當り前の事」として覺え込み、機械的に守らうとする習性がある。しかし、それが餘りにも「當り前」に感じられる爲、多くの人はそれらが外部から「教へ込まれた」だけのものである事を忘れ、普遍的で客觀的な眞理と誤つて認識してしまふ。
子供の頃に「正しい」ものと教へられた事が、實は誤であると指摘された時、人は屡々、感情的に反撥し、拒絶しようとする。

教育は常に正しいとは限らない。

教育は一種の洗腦である。

教育は一種の洗腦だと知つてゐる人でさへも、自分がされた洗腦を解かれたがらない。意地でも一度された洗腦は守りたいと、多くの人が思つてゐる。
かつて教育で學んだ「常識」と違ふ事を言つてゐる人を見ると、人はその内容を冷靜に理解しようと出來ず、「これはひどい」等と言つて感情的に反撥し、排斥し、自分は冷靜だ・自分は正しいのだ、と言ひ聞かせ、自分を安心させようとする。
言葉は社會的な取決め事に過ぎないと知つてゐる筈の人が、「現在通用してゐると云ふ只それだけの取決め事」に異常なまでに拘り、その拘りは無意味だと指摘してゐる人間を「昔の言葉に拘つてゐる」などと言つて嘲る。

過去のものを守りたいと思ふのは自然な感情だが、今のものに拘るのは異常な性癖である。

「現代のかなづかい」を「我々自身のもの」として「保守」しようとするのは自己中心的な態度で、傲慢だ――と論理的に判定せざるを得ない。歴史的に引繼がれて來た假名遣を「自分を超越した存在」として認めるのは、自己を滅却した態度であり、自己を滅却するのは謙虚たらんとする意志を示すものである。
我々は、自分のものを他人に押附ける事しか出來ない。「現代仮名遣い」を「自分逹のもの」だから守れと言ふ人は、押附けをやらうとしてゐる。けれども、我々の外部の存在である歴史的假名遣を押附ける事は出來ない。出來るのはただ從ふ事だけである。