闇黒日記?

にゃもち大いに語る

日本人は戰爭を「した」のか

日本人は「自分逹が戰爭をしかけた」と云ふ事實を、もつとちやんと意識すべきだと思ふ。戰爭に敗けた途端、「戰爭は惡い事ですやつては行けません」なんて言出すのは無責任だ。

戰爭に敗けた途端「戰爭は惡い事だ」とか「やつては行けない」とか言出すのは、戰爭に勝つた相手を否定しつゝ自分の敗北を無かつた事にしてごまかさうとする意圖があると受取られても仕方がない。「平和主義」と稱してみても、綺麗な言葉で胡麻かしてゐるのだと言はれたら反論のしやうが無い。
日本人は「自分が戰爭をやつたのだ」と云ふ意識が無い。「誰かに強ひられて戰爭をさせられたのだ」と思つてゐる。それは誰かに責任轉嫁する事で、自分では責任を取らないと云ふ事を意味してゐるのだが、日本人は誰かを責めれば自分は免責されると信じてゐる國民だから全然氣にしない。
日本人は、個人レヴェルでは「誰がやつたか」を異常なまでに氣にするが、市民レヴェル・國民レヴェルでは「何があつたか」のみを氣にする。だから日本人は、「日本人がアメリカに戰爭を仕掛けた」ではなく「昔、戰爭があつた」と言ふ。
「昔、戰爭があつて、人がいつぱい死んだ」だから「戰爭反對」――自分が戰爭を仕掛けて、やり返されて、それで彼我共に死者を出したのだが、當事者意識が無いから「戰爭反對」と言つても何時か「過ちを繰返す」事だらう。
日本人は、「戰爭になる」と言ひ、「戰爭をする」と言はない。戰爭が「自らの意志によつて行ふもの」だと云ふ意識を持つてゐない。だから「戰爭に正義なんてものはある訣がない」と極附ける。そもそも、正義を掲げて意識的に戰爭をした經驗がないだけなのに。

徴兵制の問題にしても、「人を殺すやう國に驅立てられるのは困る」「殺されたくない」と云ふ只管受身の考へ方か、「教育的目的で有用」等と言つた功利的な考へ方しか出て來ない。命を賭してでも守らねばならない國家の正義と云ふものが日本には無い、と云ふだけでこの體たらくである。
そもそも日本人は、ただ日本と呼ばれる地域にたまたま寄集まつて生活してゐるだけで一つの國家を作つてゐるに過ぎない。「なぜ國家を作るか」と言ふと、生活に便利だから、と日本人は答へる。集團生活を通して實現したい理想が、日本人にはない。それを日本人は當り前だと思つてゐる。
守りたい理念・理想・思想といつたものが日本人にはない。日本人にとつて大事なものは自分の命だけだ。日本人は、命を賭して守るべきものがない事の問題を感じず、命を失ふ可能性のある兵役を拒絶する感情だけを持つてゐる。
日本人は、誰かの命を守る爲に戰ふ、と云ふ事も考へられない。自分の命を失つたら全部終りだと考へるからだ。戰ひを避けて、自分が死ぬ可能性を最小限に減らす事が出來れば、その方が悧巧だと考へる。
否、今の日本人は「自分が死ぬ事は絶對に受容れられない」と言ふべきだ。昔の日本人はその點、まだ増しだつた。