歴史的假名遣について
「現代仮名遣」が、「日本語の表記を簡單にしたら、日本語教育は樂になり、日本人の知的レヴェルも上がるに違ひない」と云ふだけの理由で主張されたものである事は、どれだけの人が理解してゐるだらうか。ゆとり教育を實施した論理と同じ理由だよ。
「現代仮名遣」を支持するのは、自分はゆとりだと言つてゐるのと同じ。
歴史的假名遣と言ふと、何も知らない人は必ず「てふてふ」と言ふが、それは蝶々の字音假名遣。
歴史的假名遣と一括りに言ふけれども、日本語には「體言」「助詞」「用言の語幹」「用言の活用語尾と助動詞」の區別があるから、それぞれの假名遣も區別しなければならない。
・助詞に就いては――「は」「へ」「を」が「現代仮名遣い」でも歴史的假名遣のまゝ殘つてゐる。これを不徹底と見るのが正しい。
・用言の活用語尾と助動詞について――歴史的假名遣は單純に文法の規則に基いて定めてゐる。だから大變合理的で解り易い。「現代仮名遣」は、「發音通り」が原則だが、用言・助動詞絡みでは發音通りにすると支離滅裂になるから、歴史的假名遣の法則をつぎはぎして胡麻かしてゐる。非常に解り辛い。
歴史的假名遣と一括りに言ふけれども、日本語には「體言」「助詞」「用言の語幹」「用言の活用語尾と助動詞」の區別があるから、それぞれの假名遣も區別しなければならない。
・助詞に就いては――「は」「へ」「を」が「現代仮名遣い」でも歴史的假名遣のまゝ殘つてゐる。これを不徹底と見るのが正しい。
・用言の活用語尾と助動詞について――歴史的假名遣は單純に文法の規則に基いて定めてゐる。だから大變合理的で解り易い。「現代仮名遣」は、「發音通り」が原則だが、用言・助動詞絡みでは發音通りにすると支離滅裂になるから、歴史的假名遣の法則をつぎはぎして胡麻かしてゐる。非常に解り辛い。
歴史的假名遣は、それ以前に無意識に書かれてゐた書き言葉を、語彙の新知識と共に文法の新知識に基いて整理したものだ。だから、從來の假名遣ひとは完全に連續してゐる。「現代仮名遣」は、書き言葉を話し言葉の立場から見て改變を加へようと云ふもので、書き言葉の連續性を破壞する事が目的である。
「歴史的假名遣を認められない、それ以前の自由な書き方なら認められる」と言ふ人がゐるけれども、嘘である。なぜなら、その人は、その大好きな筈の「自由な書き方」とやらを使はず、「現代仮名遣い」で書き續けてゐるからだ。ただの當てつけを言つてゐるに過ぎない。
「歴史的假名遣を認められない、それ以前の自由な書き方なら認められる」と言ふ人がゐるけれども、嘘である。なぜなら、その人は、その大好きな筈の「自由な書き方」とやらを使はず、「現代仮名遣い」で書き續けてゐるからだ。ただの當てつけを言つてゐるに過ぎない。
明治期に歐米から近代文明が流入して、それで日本は近代化が實現した。けれども日本語の表記――假名遣――だけは江戸時代、日本人自身の手で近代化が試みられたのであり、日本人の數少い自發的な近代化の試みとして大變貴重である。
日本語を表音化せよとの主張は、慥かに古くからある。けれどもそれは、日本語それ自體の性質を尊重して言出された事ではない。ただ「進んだ歐米では漢字が使はれてゐない、ローマ字が使はれてゐる」と云ふだけの理由で言出された事だ。ただの劣等感が表音主義の原因である。
「現代仮名遣」の思想的源流に「表音的な書き方をする歐米諸國に比べて、漢字を使ふ日本語は遲れてゐる、日本語は駄目だ」と云ふ劣等感がある事を、今の人は自覺した方がいい。そんな事もわからないで、樂天が社内公用語を英語にすると云ふのを嗤つたりしても仕方がない。
日本語を表音化せよとの主張は、慥かに古くからある。けれどもそれは、日本語それ自體の性質を尊重して言出された事ではない。ただ「進んだ歐米では漢字が使はれてゐない、ローマ字が使はれてゐる」と云ふだけの理由で言出された事だ。ただの劣等感が表音主義の原因である。
「現代仮名遣」の思想的源流に「表音的な書き方をする歐米諸國に比べて、漢字を使ふ日本語は遲れてゐる、日本語は駄目だ」と云ふ劣等感がある事を、今の人は自覺した方がいい。そんな事もわからないで、樂天が社内公用語を英語にすると云ふのを嗤つたりしても仕方がない。