闇黒日記?

にゃもち大いに語る

高島俊男の困つた主張――「訓讀みは無意味である!」

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/12340

「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
http://yuki-chika.hatenadiary.jp/entry/2015/01/15/040433

シャルリー・エブドの諷刺畫が何うとか、言論の自由が斯うとかいつた話には觸れない。
問題は高島俊男。高島の撒き散らす誤つた言説が本當にあちこちに酷い惡影響を與へてゐて、これは本當に困つた事だと思ふ。

「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。(『漢字と日本人』)

高島俊男は阿呆な人間なので、我々の御先祖樣がなぜ同じ「とる」を漢字で書き分けようとしたのか、それを考へない。考へないで、「書分けようとする人間」を脅す事で、自分の好みを他人に押附けようとする。

わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな人たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。

「わたしのような知識のある者」と言つてゐる高島がこんな事を言へば、高島自身が「おろかな人たちをおどかす人間」になる。それが高島にはわからない。
高島自身の論理により高島が有害である事は確定する。それではまづい筈だが、高島は氣にしない。結果として自分の主張が押附けられればそれでいいからである。大抵の讀者は「知識がある」と云ふ事だけを氣にし、理窟を氣にしない。高島は讀者をなめてゐるのである。
閑話休題

昔の日本人はなぜ漢字の訓讀みなんてものを考へたか。それが便利だつたからに相違ない。便宜である。しかしその結果、あまりにも貧弱だつた日本語の語彙は擴張される事となつた。我々はその意義を認めるべきである。
我々の先人は訓讀みの效能を認め、異る概念をしつかり書分けるやうに努めてきた。それが「権威主義」に繋がつたとしても、副作用であるに過ぎない。
日本語の「とる」は「取」「採」「捕」「執」「摂」「撮」などの漢字の「訓讀み」とされた。その結果、從來曖昧に考へられてゐた「とる」なる語は、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などの異るニュアンスの概念を含むものと初めて日本人に理解された。「とる」一本槍で何でもやつつけてきた日本人は、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などの漢字を知る事で、異る概念を區別する事を學び、精密に考へる事を學んだ。これは進歩である。

――高島俊男はさうした進歩を兔に角全て無に歸したいと願つてゐる。なぜか。いいかげんに考へるのは樂だからである。
樂な事が現代の日本人は大好きである。今の時代、何でも「樂になれ」と言へば受ける――樂に書く事を高島は現代の日本人に説く。高島は人氣を得たくて、受けを狙つて「樂になれ」と言つてゐる。冗談ではない。個人の受け狙ひなんかのために、先人の智慧が否定されてはたまらない。

自分は歴史的かなづかひの支持者であると高島は言つてゐる。しかし週刊文春の連載でも高島は歴史的かなづかひで書いた事がなかつた。
高島は歴史的かなづかひ派にもいい顏をして見せてゐるが、實は「現代仮名遣い」派なのでないか――高島は國語改革を肯定してゐるのでないか。私は疑つてゐる。

ちなみに、漢字をかな書きする高島俊男の書き方は、原稿の水増しである。「量る」を「はかる」と書けば一文字原稿を水増しできる。「私」を「わたし」と書けば二文字水増しできる。誠實な書き手ならお金を貰つて書く原稿は壓縮して書くものだ。