闇黒日記?

にゃもち大いに語る

議論は成立ち得るか

議論において、我々は客觀的に物を見ようとしながら、實に屡々多くの重要な事を見落とす――それも容易に結論を導かうとして。
ところがそれゆゑにその「簡單に引出された結論」が納得されず、或は強力な力を持ちながら依然として何處か嫌な後味を殘す。我々はもつと率直に語るべきだと思ふ。
議論になつてゐる時、その議論の對象となつてゐるものを、もつと良く見て、正しく受けとめる必要がある。價値觀と云ふものが絡んで來るならばそれもありのまゝに受止めねばならない。價値觀・主觀と云つたものも實在物として客觀的に檢討すればいい。それが正直な議論と云ふものだ。

「議論は成立ち得るか」――「議論は成立たせねばならない」と云ふ價値觀を論者が共有してゐなければ成立つまい。
議論を成立たせよう、と云ふ意識のない人が參加する「議論」は、言爭ひの域を先づ出ない。ただの意見の押附け合ひに陷らざるを得ないからだ。意見の押附けなら意志の押附けであり、最終的には暴力に行かざるを得ない。私はそれを良しとしない。が、それを良しとする人は結構ゐるのだ。案外さう云ふ暴力主義者がウェブには多い。
私は、正直な議論こそが建設的な議論だ、と信ずる。しかし、自分にとつて都合の良い結論が「出る」事が「建設的な議論をした事」になるのだと信じてゐる人がウェブには結構澤山存在する。勿論そんな結論を出して呉れる裁定者等ゐないから、さう云ふ人は目の前の論者を泣かせる事で「結論が出た」事にしようとする。