闇黒日記?

にゃもち大いに語る

キリスト教と合理主義

歐米諸國や中近東の邊の國ではキリスト教イスラムが歴史的に浸透してゐて、國民は大體生き方=文化として宗教の發想を受容れてゐる。具體的な教義を信ずる信じない以前に考へ方が身に附いてゐる。そこでは思想の相違があるにしても表層的なもので、根本的な部分では無意識にでも相互の諒解がある。
宗教の命令は絶對の命令で、信者の反論を許さない。だから「惡」とは何か、は決つてゐる。

絶對の命令を排除し、「全てを疑へ」の精神で行く合理精神は、キリスト教への反抗から生じたものだ。それは人が物を客觀的に見る目を養つたが、主觀に關してはノータッチだつた。或は、主觀に關はつた時點で、擬似宗教への接近であつた。合理精神の主觀への干渉は常に失敗に終はつた。
合理主義は客觀的に物を見る精神として出發したが、元々キリスト教に逆らつたものであり、アンチキリストのイデオロギーだつた。一方キリスト教は良く出來た宗教で、樣々な近代的な理念を育てた。合理主義者もそれは認めざるを得ず、合理主義で理念を説明してキリスト教から絶縁させようとした。それは巧く行つてゐない。
合理主義にも限界がある。その限界は或意味キリスト教が既に突破してゐたものだ。もちろんキリスト教にも限界があり、合理主義はそれを衝いて、結果として今の地位を得てゐる。が、結果として合理主義もキリスト教も不完全で、現實の人間社會には完全に適應できないと云ふ状況に陷つてしまつた。

日本は思想的に未發達の國で、明治時代、後進國として歐米の思想や技術を採入れた。その時キリスト教は採入れず、和魂洋才で行く事とした。けれども實は和魂なんて存在しなかつた。そして弱點のあるにもかかはらず合理主義を良いところだけを見て採入れようとして、現在非常に難しい状況に陷つてゐる。