闇黒日記?

にゃもち大いに語る

人は何を議論すべきか

よくよく考へれば何でもかんでも疑はしいわけで、さうなると「議論に於て簡單に結論を出せる問題なんてさうさうない」と云ふ事だけが確實――と云ふ事になります。ところが議論で直ぐに結論を出さうとする人がゐる。
――議論をしようとする姿勢そのものが間違つてゐる。明かに惡い事を多くの人が一齋に糺彈するのも、結論が既に出てゐる事についてえんえんぐちるのも、議論ではない。
交通事故の話で「車が惡い」「バイクが惡い」と相互に散々罵り合つてゐるスレを壺だか何處だかで見たけれども、あれは「互ひに讓り合つて」と云ふのが結論である事は動かしやうがない。その結論は兩派とも知つてゐて、それでゐて何時までも相手を罵り續けてゐる。議論ではありません。

自然科學の問題だと、實驗等で檢證でも反證でも出來るから、要は確認作業がきちんと行はれればいいだけで、議論が可能と言つても意外と話を出來る範圍は廣くありません。
政治の話なんかは最う議論の場で決着がつく事を期待しては行けないので、「議論」はただ互ひの主張を述べ合ふ場であり、見てゐる人へのアピールの場であるに過ぎません。

政治でも經濟でも、「自分の主張は神の主張と同じで100%確實に正しい、誰某の主張は神の主張に逆らふ惡魔の主張で叩き潰さなければならない」みたいな事を言ふ人がゐる。これが一番愚かだと思ふ。政治でも經濟でも「100%確實」なんて事は絶對にあり得ない。

價値觀や人の生き方に關はる問題――實はそれこそが議論に價する事柄で、人は「なぜ生きるか」の問題を論じなければならないし、それには全ての人が發言する權利がある。政治より道徳の方が劣つてゐると考へる人がゐるが、あべこべだ。政治なんかより道徳の問題の方が遙かに重要だ。
政治の議論では、非常に安直な主張の仕方が繰返されるが、非常に安易な價値觀の採上げられ方も繰返し行はれてゐる。それが私には大變不愉快に思はれる。「惡」と云ふ事が餘りにも簡單に定められて、それを基に他人を斷罪する――さう云ふ論者が極めて多い。