闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「國家の謝罪」なる出たら目

國に謝罪させて喜んでゐる人々がゐるけれども、「國の謝罪」なんてものくらゐ空疎なものはないと思ふ。

大體、國が謝罪した、なんて奇怪な事態は、天地開闢以來一度もない。
「國を代表して謝罪する人」や「國に成代はつて謝罪する人」はゐる。けれども、「國なる存在」が椅子から立上がつてすみませんと言つて頭を下げる――或は土下座する――なんて事態は、一度として出來してゐない。國は法人であり、概念的な存在であるに過ぎない。

菅談話の問題にしても「南京大虐殺」の問題にしても、俺が何に文句を言つてゐるのか、多くの人がわかつてゐない。
俺は、政治や歴史の場において「謝罪」なる道徳的行爲がそもそもあり得ない、と指摘してゐる。法人は反省も謝罪もしない。できないからだ。反省したり謝罪したりするのは個人のみである。
「國家に謝罪させる」なんて事は不可能なのだ。その不可能な事が恰も可能であるかのやうに、世間の多くの人が言つてゐる。しかし、できないものはできない。
その「できないこと」を「する」のが「よいこと」であるかのやうに言ふ――それは道徳の破壞に繋がる。だから俺は反對してゐる。道徳とは、個人ができる事をする中にのみ存する。

謝罪しろ謝罪しろと他人に要求してばかりゐる連中が、道徳的に立派だつたためしがない。
「謝罪しろ」は、相手に壓力をかけて嫌がらせしてゐるのを、もつともらしい正義の行動に見せかけるのに使ふ言葉である。