闇黒日記?

にゃもち大いに語る

あんまり深讀みせぬやうにしていただければと

>支那にはマルキシズムを受容れる素地があつた、と云ふことですか?

いや、此處での當方の主張は飽くまで「讀み方」の域に留まるものです。

マルクスにしても孔子にしても、多くの人が學ぶべき人であると思ひ込んだり、一方で、端から非難・攻撃し去るべきであると信じてゐたりする。しかし、どちらの態度も如何なものか、と俺は思つた。
はつきり書かなかつたけれども、マルクス孔子も「人類に對する愛」を持ち、後世の人間に多大な影響を與へた點で、共に「偉大な人」ではあるが、しかし本當に人間として偉大であつたかと言ふと、さうでもないのではないかと俺は思つてゐる。孔子の言つた事とされてゐる『論語』は、これは何うも、讀み手の解釋で何うとでも讀めるのであつて、そこで「偉大な孔子樣」が言つたと云ふ事で、立派な内容として讀まうとする傾向が「ある」やうに思はれる。

で、さうした讀み方が一概に惡いと云ふ訣ではなくて、ただ非難して許りゐる讀み方より寧ろその方が傍から見てゐて感じの良い讀み方ではあるのだけれども、けれども、さうやつて成立してゐる「偉大な孔子」に對して、俺の印象では孔子が何うも本當に偉大な人物だとは思はれない。確かに立派な人物である面もあるけれども、どちらかと言ふと「人間的である」「人間らしい」人物と云ふ印象が強く、それだけに、さう云ふ人物を「偉大である」として「學ぶべき對象」としてしまふやり方に(例へば山本七平なんかの態度が典型的だ)人生論の材料としての卑俗さを感じ取つてしまふ。吉川幸次郎の文章にすら、嫌な臭みを感ずる(『中国の知恵』新潮文庫)。
かと言つて、宮崎市定の「新しい論語の讀み方」が「良い」のかと言へば、こちらは「テキストを讀む」やうな感じ、砂を噛むやうな味氣無い譯文を讀まされる感じが附き纏ふ。宮崎譯『論語』は、「名譯」であると谷沢永一が言つてゐるのだけれども、あれほど孔子と云ふ「登場人間」の性格を無視して、ただただ文字面だけを追つて「譯した」と云ふ感じのする『論語』も珍しい。

マルクスと云ふ人物は、實はそんなに頭が良くないのでないか、と云ふ事を、俺は殆ど讀まないで直觀で言ふのだけれども、頭の出來では孔子樣は先づ一流の部類には入るだらうと、こちらもまた何の根據もナシに直觀で言ふ。けれども、孔子樣の方は、傳はつてゐる言葉が何うにも斷片的だし、何うも孔子自身が、東洋人らしい曖昧さを以て弟子たちに「何か」を「教へよう」としたらしき氣配すらあつて、現代人の俺には逆に何うも教はつても仕方がないのでないかと云ふ、これもまた根據の無い氣分としての感覺がある。讀んでも何かを新たに學べるものとも思はれないと、さう云ふ事だ。知つてゐる筈の事をもつたいぶつた樣子でそつと示唆されるに過ぎない――さう思ふやうになつて最近、何うにも孔子樣には魅力を感じられなくなつた。