闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「SEO」つて惡い事なんだつけ?



茲數年「サーチエンジンに最適化する」とか訣のわからん行爲がウェブで「一般化」してゐるのだけれども、それに對抗してGoogleが何かやつてゐていろいろアレしてゐる(最近語彙が貧弱になつた俺)。で、それがいろいろアレなもので何うもいろいろアレであると。

檢索エンジンなるサーヴィスの目的は、ユーザが求める情報を適切に探し出して提供する事だ。俺がGR DIGITALで檢索したら、リコーのGR DIGITALのサイトなりブログなり、或はユーザの書いた文章なりがヒットする、その時俺は求めてゐた情報に辿り着けるのであり、俺は檢索エンジンに感謝をする。俺は、情報を得られたから感謝をする。
檢索エンジンは適切に情報を探し出す事を賣りにしたサーヴィスだ。檢索エンジンのユーザは、欲しい情報を得られるから檢索エンジンを使ふ。

で、一番最初に出てくる情報が大概一番ユーザにとつて必要な情報であるからGoogleは大した檢索エンジンだと認識されてゐる訣だが、さうした一般的な認識に乘じてGoogleの檢索結果で一番最初に出さへすれば良いと考へる人が出てくる。
内容が無いやうな記事であつてもGoogleの檢索結果で一番最初に出て來ればそれは良い情報に早變はりする――なんて考へたら話が本末轉倒なので、駄目な情報は何處に出てこようが駄目なものは駄目に決つてゐる。ところが、それがわからない人は極めて多い。

檢索エンジンの檢索結果で上位に出てくるやうにするには、その記事なりサイトなりが良い情報を提供するものであるやうにすれば良い。檢索エンジンが良い情報を見附け出すサーヴィスなのだから、良い情報を提供するサイトを作るのが檢索結果の上位に出て來るやうにする一番正當なやり方だと云ふのは、論ずるまでもなく眞實であり、全ての人間が同意せざるを得ない道理である。ところが、その誰もが同意する筈の道理を、なぜか無視して、無理やり駄目な情報を檢索結果の上位に押込まうとする人が出てくる。
これは要は横着をしたいと云ふだけの話なのであるが、現代は横着を良い事だと信じられてゐる時代なので、出たら目が罷り通る事になる。そして、掲示板で異常な人間が威張るやうに、ウェブでは異常な發想のサイト制作者が威張る。力づくでの「SEO」(やり方はよく知らないが兔に角間違つた方法の。だから鉤括弧附きで言ふ)が、なぜか眞面目に論じられるのはそのせゐ。

しかし、その一方で、「本当のSEOとは何か」を論じて、それは「このページが論理的に正しい構造をしているか」が問題なのだ、と云ふ話になつてしまふ。或は「戦略」とか。
さうではない、斷じてさうではない。
實際のところ、HTML文書の構造が何うとか云つた事は、檢索エンジン對策(?)では重要でないし、と言ふよりそもそも閲覽者にとつて全然重要でない。正しいHTMLマニアの人々が屡々勘違ひしてゐるのだけれども、文書の形式の問題は單に「より良い表現」の問題なのであつて、問題は文書に含まれてゐる情報の質にある。リコーのサイトがどんなに目茶苦茶なHTMLで書かれてゐても、リコーの製品であるならばGR DIGITALを檢索してリコーのGR DIGITALのサイトが最初に出てくるのは正しいのだ。如何に清く正しく美しいHTMLで書かれてゐても、一ユーザのGR DIGITALに關する記事なり何なりがリコーのサイトを押しのけて檢索結果のトップに立つたらをかしい。もちろん、程度の問題で、本家の情報より第三者の情報の方が有益であるならばそれはそれで「あり」だが、何れにしても文書の形式なんてものは問題にならない、檢索結果は――と言ふよりユーザが求めるのは、飽くまで良い情報を提供してゐるサイトである。製品情報を檢索してメーカのサイトがヒットするのは、兎にも角にもメーカが出す情報は第一に尊重されるべき情報である。情報として利用されるべきものを提供してゐるから或サイトは見られるのであり、文書がきれいに書かれてゐるからそれだけで見られるのではない。この邊はSGML/XML的な意味で形式的に正しい文書を書く事がそれ自體として目的となつてしまつてゐる人々に屡々勘違ひされてゐるのだが、反省していただきたいと思ふ。日本では兎角形式論に流れ勝ちで、と言ふのは表現の形式に關する議論に流れ勝ちで、これは何でも議論がシステム作りの議論に流れ勝ちであるのと軌を一にする現象だが、或形式によつて表現される思想、或システムの上で媒介する情報といつたものの、その内容に關しては常に閑却される。

例の掲示板荒しでストーカーの「義」が俺の名前を騙つて各地の掲示板を荒らしまはつた件で、關係者の方々がいろいろとやつてくださつて、感謝してゐるのだけれども、そこでSEOの問題に關する議論――と言ふより、「野嵜の贋者に注意」と云ふ記事を澤山作る事はスパム的な行爲でないかと云ふ議論が持上つたのを見た。結局のところ、「贋者」が流すデマは情報として質の惡いものであり、注意を喚起すると云ふ記事は情報としてより良い質のものである、と云ふ事を言へばそれで話は濟んだ筈なのだけれども、その邊の議論が行はれた形跡はなく、逆に、「檢索結果の上位に並んでしまつて何うよ」と云ふ論調が定着してゐたのが氣になつた。

現在でも「野嵜健秀」で檢索すると、例のアレクセイや竹下義朗の惡質な中傷文書が上位に出て來る。「義」の件で應答して呉れたありがたい方々も、こちらの件では大變に及び腰で――と言ふより、明かに野嵜が惡人だ、掲示板荒しだ、と信じてゐる節がある。何度説明しても聲の大きい方が通る世の中だからアレクセイや竹下が勝ちを收める結果にしかならないのだらうが、しかし、この現象をみると、「SEO」業者の論理は世間で案外通用するもののやうに思はれる。

と言ふより、現在の檢索エンジンの技術は、「多くの人が良いと思つてゐる事は良い筈だ」「多くの人が正しいと信じてゐる事は正しい筈だ」と云ふ發想に基いてゐる。しかし、「良い」「正しい」と云ふ事は、輿論によつて決るのか。
SEOの議論でこの邊まで踏込んで論じた文章を俺は見た事がない。もちろん、そんな哲學的な事まで考へてゐたら、Googleの中の人々は仕事にならんのだらうし、だから割切つて技術者は文書の機械的な解析をやつてゐる訣だが、しかしユーザは何處までも「良い結果」を求める。さうなると、そもそもの「檢索エンジンの思想」そのものを我々は檢討しなければならない筈である。さうした檢討をスルーしたまゝでゐる我々は、結局のところ、皮相の議論しか出來ないでゐる。が、一度この事を意識すれば、我々が見てゐる檢索エンジンの檢索結果なるものが、本當にたまたま巧く情報にヒットしてゐるに過ぎない事が解る。我々ユーザはまた、檢索結果を頭から信じないと云ふ智慧を持たなければならない。その時、商賣としての「SEO」が何處まであり得るかは、根本的に再檢討されねばなるまい。