闇黒日記?

にゃもち大いに語る

HTMLの5ですか(赤肩)

http://www.whatwg.org/specs/web-apps/current-work/
http://dev.w3.org/cvsweb/~checkout~/html5/html4-differences/Overview.html
http://mynotes.jp/blog/2007/06/html5
http://deztec.jp/design/07/07/02_html5.html
http://d.hatena.ne.jp/jintrick/20070707

なぜかW3Cのサイトに繋がらないし、なんかWHATWGのサイトは重いし、そんな訣でドラフトやら何やらは讀んでないので印象と言ふか例によつて適當な事を言ふけれども、HTML5つて矢鱈氣持ち惡い代物になりつゝあるやうに思はれる。
石川さんのところのサンプルソースを見ただけで言ふのもアレだが、header要素/nav要素/article要素つて何ですか。何でこんなに「意味」に拘つた要素を作つたのだらう。嫌な嚴密化だと思ふ。と言ふかこれ、ブログを作るのに便利な要素を作つただけではないか。

「ナビゲーションは明示しなければならないものなのだ」とか「記事の内容は『これは記事の内容である!』と一々明示しなければならないものなのだ」とか、そんな變な主張がHTML 5のドラフトから露骨に看て取れる。仕樣策定者等は「これはいい!」と本氣で信じてゐるのだらうし、HTML 5の現在のドラフトに反對する人々にも斯うした「嚴密化」を歡迎してゐるらしき氣配が感じられる。しかし、俺はこの「嚴密化」は嫌だなあと思ふ。俺は別に「ナビゲーション」を「ナビゲーション」として明示したくはない。そんな事をしても意味がないからだ。

「ナビゲーション」の爲のURL/アンカーポイントの羅列を、「ただのリスト」以上の「ナビゲーションの爲のリスト」として、何うしてわざわざ明示しなければならないのだらうか。「わざわざそんな事しなくても良いのではないか」と思はれるものは削るべきだと俺は思つてゐる。ところが何故か仕樣策定者は、仕樣をてんこ盛りにしたがる。「リスト」と云ふ「より廣い範疇」では駄目で、「ナビゲーションの爲の」と云ふ修飾を加へたがる。しかし、俺にしてみれば、「ナビゲーションの爲のリスト」もまた「リスト」に含まれる、と、簡單に考へたい。
勿論、何らかのプログラム的處理をデータに加へたいと考へる人もゐるだらうし、さう云ふプログラマの爲に「ナビゲーションの爲」と云ふ「意味」を先んじて用意しておかうと云ふ事なのだらうけれども、別に要らないと思ふ。要素に何らかの目印が必要なら、classなりidなりでマークを附けておけば良いだけだ。
そもそも「ナビゲーションの爲の要素が必要になる」事自體が「文書構造を明示するHTML」と云ふ俺の假説に反する。俺の主張では、基本的にサイト内部の文書はhead内部のlink要素で關係が示されるべきであり、それをブラウザがメニュー化すべきものだ。文書のbody中にナビゲーションを埋込む事自體が誤つた行爲だと云ふ事だ。テキストに、既にナビゲーション情報が記述されたものがあつて、それをマーク附けする、と云ふのでなければ、ナビゲーション情報が自然にHTML文書中に出現する筈がない。現状、ナビゲーション情報がbody中に出現するのは、後から内容を書加へてゐるのであつて、マーク附けの理念に反する。全てのマーク附けは既存の内容を書換へないやうにすべきであり、ナビゲーション情報を追加する事は内容の書換へに他ならないから、理念的には唾棄すべき事である。内容の追加でない、headへの空要素の記述は容認される――と言ふより、それによつてテキストをリッチなものにするのが本來のマーク附けのやり方だらう。その邊の事を考慮すれば、ナビゲーションに關する記述を認め、寧ろ積極的に奬勵するやうな今のHTML 5のドラフトの仕樣は、俺には誤つた方向にHTMLを進化させようとする誤つたやり方であるやうにしか思はれない。

HTML 5は餘りにも「豐か」過ぎて氣持ちが惡い。裝飾過剩は良くない事だ。そして、理念として「文書構造の明示」ではなく「文書の部品の意味の明示」を選擇してしまつてゐる。その上、文書に無駄な部品を追加する事を積極的に奬めてしまつてゐる。石川氏が反對してゐる「裝飾要素の温存」も、さうした文脈で行はれてゐる事だらう。「意味のある部品」ならば、何だつて「あり」だと云ふ訣だ。
しかし、HTML文書は簡潔であれば簡潔であるほど良いと俺は信ずる。今のHTML 5のドラフトが指し示す「將來のHTML」には反對だ。