闇黒日記?

にゃもち大いに語る

妥協と惡しき嚴格主義

「アンチ」の人が當方を罵つて「嚴格でない」と非難して呉れる事があるのだけれども、何でもかんでも嚴格にしろと俺は言つてゐないのに、なぜかしてゐない主張を「してゐる」事にされてしまつて迷惑してゐる。さう言ふと「野嵜は好い加減にしろと言つてゐるんだなw」と嘲る人が出て來る始末で、極端から極端に振れて何うするんだと思ふが、さう云ふ極端な態度をとると、他人を侮辱するには都合が良いらしい。

極めて瑣末な、何うでも良い事を一々採上げて、「矛盾だ」「一貫してゐない」と、人の事を罵る人が實に多い。それは野嵜が「主張は一貫すべきだ」と言つてゐるからだと「アンチ」の諸氏は言ふ訣だが、一貫すべき主張と何うでも良い事とは嚴密に區別すべきだと俺は言つてゐるのだし、それを俺は實踐してゐるに過ぎないのだから文句を言はれる筋合ではない。「アンチ」諸氏が一々文句を言ふのは、それは勿論「文句を言つて困らせたいから」で、文句を言ふ事で何か今までこの世に知られてゐなかつたやうな眞實が明かになるものでもないし、それで「アンチ」諸氏が如何に立派かを證すものでもない。ただただ無益なだけであるが、さう云ふ無益な事でも何か自分が立派な事をしてゐるかのやうに思ひ込める人がゐるのである。それで「保守主義者」とか名乘つて、現實には特定個人に粘着するだけのブログを作つてしまつても、當人、愧ぢない。傍から見れば愉快な事なのだらうが、粘着されてゐる人間にとつては堪つたものではない。

俺は大學時代、松原正先生に英文學を習つた訣だが、それだけの事だし、その後もそれほど親しく御附合ひをさせていただいたものではない。實際、松原先生の信者と言つて良い人はゐるのであり、また、松原先生と個人的に親しくしてをられる人もゐるのだが、さう云ふちやんとした人を知らないで、ひたすら俺を「信者」と言つてゐる「アンチ」の人は、何とも無知であるよと思ふけれども、まあ、無知な人くらゐ思ひ上がるものはないから仕方がない。「アンチ」諸氏は、取敢ずウェブで目についたからと言つて、ウェブで罵るべき對象として俺を吊し上げてゐるに過ぎない。松原氏に興味があると言ふよりも、ただ罵るのが好きで、當座罵り易さうな人間として俺に目を附けたのである。罵るにしても、目的があつての事ではなく、ただ罵るのが好きなのだから、連中處置なし。閑話休題

松原先生もまた「何でもかんでも」式の嚴格主義を主張なさらなかつた。勿論、若い頃の先生をこちらが存じあげない事もあつた訣だけれども、けれども理不盡に嚴格主義を振囘さない事は昔も今も變らない。國語問題協議會での講演でも、別に正字體を常に正しく書けなくても、或は正かなづかひを常に正しく用ゐる事が出來なくても、そんな事を自分は何とも思はないとはつきり言明された。ただ、實際に自分が正しく使へようが使へまいが、正しい表記がある事は決して疑ひ得ない事を信じてゐると、さう主張された。

"A Man for All Seasons"と云ふロバート・ボルトの戲曲を松原先生は授業で扱はれて、俺は怠惰な學生であつたからそんなに難しくもない筈の英文に隨分惱まされた事も覺えてゐるが、一方、松原先生の指摘された優れた場面・優れた臺詞に感銘を受けた事も覺えてゐる。これは松原先生が譯されて「我が命盡くるとも」の題で上演されたし、映畫にもなつたし、別の人の譯で本も出てゐる。當時、改訂版を洋書屋で見附けて買つてあるのだけれども、今、本の山の中に埋もれて、出て來ない。記憶で書くが不正確な事は御容赦。
主人公は「ユートピア」のトマス・モアだ。嘗ての政治家モアは、今は聖職者となつてゐる。政治家の時には妥協もし、「ユートピア」では寛容の精神も説いた――そんなモアだが、理不盡にも王が再婚を希望すると、カトリックの立場から離婚は許されないと主張したのだつた。王はモアを知つてゐるから、反目しあつてゐる今でも、憎んではゐない。そんな王と對峙して、手で水を掬ふやうな形を作り、モアは言ふ、私にはこんな小さな領土しかありません、けれどもこの領土は絶對に讓れないのです。モアは斷頭臺にかけられる――。
廣大な領土を持つてゐて、それを何處から何處までも自分のものと言張り、他人に讓り渡したくない、と云ふのではない。掌の、「たつたこれだけ」の「小さな領土」を以てして、これだけは讓れない、とモアは言つたのであつた。これは勿論ボルトの創作だが、かう云ふ臺詞を書けたからボルトは立派な戲曲家だつたと、松原先生は述べてをられた。